大判例

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東京地方裁判所 昭和39年(ワ)9679号 判決 1969年4月23日

凡例

(一) 団体と場所の表示

(イ) 国鉄労働組合関係

国鉄労働組合は、「国労」と略称される。したがつて、「国労福島支部」は国鉄労働組合福島支部のことであり、本件では単に「支部」と表示されることもある。支部の下部団体は「分会」であり、たとえば「郡山分会」は、正確に言えば、国鉄労働組合福島支部郡山分会である。なお、本件で、単に「分会」という場合には、福島分会を指す。

国労福島支部事務所(単に「福島支部事務所」、「支部事務所」または「国労事務所」ともいう)の建物は、当時福島市五月町(福島駅構内の一部)にあり、長さ約一〇間巾約三間の木造平家で、当時の概況は、第三図面にしめすとおりであり、福島分会およびつぎにのべる地区労、民青の各事務所が、おなじ建物に同居していた。

(ロ) 福島地区労働組合会議

本件では「地区労」と略称され、その事務所は右の支部事務所の建物のなかにあつた。

(ハ) 民主青年団

本件では、「民青」または「民青団」と略称され、その事務所もまた右支部事務所のなかにあつた。

(ニ) 東芝労働組合関係

東芝松川工場労働組合は、「松川工場労組」「松川労組」または単に「組合」と略称される。その事務所は、松川町字天王原九番地天王原工場警備所裏にあつた(東芝松川工場には、右天王原工場のほかに、五〇〇米ぐらいはなれて、前原工場があつたが、松川工場事務所と労組事務所は右の天王原工場にあり、本件に関係のある従業員宿舎「八坂寮」もその附近にあつた)。松川労組の上部団体は、東芝労働組合連合会(「東芝労連」または「連合会」と略称)であつて、横浜市鶴見区にその本部があつた(佐藤一は東芝労連の中央執行委員で当時松川労組の争議応援のため、オルグとして派遣されて松川工場に来ていた)

(二) 人の表示

本判決理由のなかでは、煩雑をさけるため原告を表示するのにいちいち原告の肩書をつけないで、直接その氏名で表示する。また本判決理由第二ないし第九章で「原告ら」と言うときには、刑事事件で被告人であつた原告らだけを指す。まちがいのないように、刑事事件で被告人であつた原告らと、刑事事件の重要証人、参考人の氏名、その本判決理由中の表示および当時の役職を一覧表にしてしめせばつぎのとおりである。

原告氏名

本判決理由中の表示

当時の役職

〔国労福島支部事務所関係〕

武田久

武田久、武田

国労福島支部執行委員長兼組織部長

斎藤友紀雄

斎藤千、斎藤

同支部執行委員兼文化部長

(「千」は旧名、ただし刑事事件記録中で「千」と表示されているので、混乱をさけるため、旧名で表示する)

本田昇

本田昇、本田

同支部執行委員兼教育宣伝部長

阿部市次

阿部市次、阿部

同支部書記

鈴木信

鈴木信、鈴木

同支部福島分会執行委員長

高橋晴雄

高橋晴雄、高橋

同分会執行委員

岡田十良松

岡田十良松、岡田

国鉄退職者、地区労書記長

加藤謙三

加藤謙三、加藤

国鉄退職者、地区労書記

二ノ宮豊

二ノ宮豊、二ノ宮、二宮

国鉄退職者、東北文化商事

(国鉄などの退職者を集め文房具などを販売していた会社)勤務

赤間勝美

赤間勝美、赤間

国鉄退職者、村山製パン店勤務

〔東芝労組関係〕

杉浦三郎

杉浦三郎、杉浦

松川労組執行委員長

太田省次

太田省次、太田

同労組副執行委員長

佐藤一

佐藤一、佐藤(一)

東芝労連中央執行委員

(当時松川労組の争議の応援、指導のため、オルグとして松川工場に来ていた)

佐藤代治

佐藤代治、佐藤(代)

松川労組青年部副部長

二階堂武夫

二階堂武夫、武夫

同労組専従者、青年部宣伝部長

「二階堂園子」こと

「佐々木園子」こと

横谷園子

二階堂園子、園子

同労組書記

(「二階堂」は母の夫の氏、「横谷」は現在の氏であるが、混乱をさけるため、刑事事件記録にしたがい「二階堂園子」と表示する)

浜崎二雄

浜崎二雄、浜崎

同労組組合員

大内昭三

大内昭三、大内

同労組組合員

小林源三郎

小林源三郎、小林

同労組組合員

菊地武

菊地武、菊地

同労組組合員

〔刑事事件の重要証人、参考人一覧表〕

氏名

本判決理由中の表示

当時の役職、身分

〔国労福島支部事務所関係〕

渡辺郁造

渡辺郁造

国労福島支部副執行委員長

羽田照子

羽田照子、羽田

同支部書記

田村千枝子

田村千枝子、田村

飯沼敏

飯沼敏、飯沼

福島分会書記

渡辺能伯

渡辺能伯

地区労書記

菅野ケサ子

菅野ケサ子、菅野

村瀬武士

村瀬武士、村瀬

民青団員

小尾史子

小尾史子、小尾

松崎七郎

松崎七郎、松崎

民青団員

木村泰司

木村泰司、木村

国鉄退職者、当時支部事務所に宿泊

小針一郎

小針一郎、小針

国鉄退職者、もと国労役員、時おり支部事務所に出入りしていた

小川市吉

小川市吉、小川

右同

〔郡山分会関係〕

薄井信雄

薄井信雄

郡山分会執行委員

薄井栄三

薄井栄三

同分会員

古川朝男

古川朝男、古川

宍戸金一

宍戸金一、宍戸

国鉄退職者、もと国労役員、同分会に出入りしていた

〔東芝松川工場関係〕

鷲見誡三

鷲見誡三、鷲見

東芝松川工場工場長

西肇

西肇、西

同事務課長、諏訪メモの筆者

諏訪親一郎

諏訪親一郎、諏訪

同事務課長代理、諏訪メモの筆者

橋本太喜治

橋本太喜治、橋本

同経理課長

小山安稔

小山安稔、小山

同生産課長

田中秀教

田中秀教、田中

松川労組執行委員、田中メモの筆者

紺野三郎

紺野三郎、紺野

松川労組執行委員

阿部明治

阿部明治

遊佐寅三

遊佐寅三

斎藤正

斎藤正

西山スイ

西山スイ

同労組青年部常任委員

高橋勝美

高橋勝美

同労組青年部長

本田基

本田基

同労組青年部員

石田宮子

石田宮子、宮子

同労組書記

木村ユキヨ

木村ユキヨ

松川工場八坂寮管理人

〔赤間の友人、家族関係〕

安藤貞男

安藤貞男、安藤

赤間の友人

飯島義雄

飯島義雄、飯島

赤間の友人

赤間ミナ

赤間ミナ、ミナ

赤間の祖母

赤間博

赤間博、博

赤間の兄

(三) 証拠等の表示

イ、 証拠

本判決理由のなかで引用する書証は、すべてその成立に争いないものであるから、いちいちそのことをことわらない。たとえば、太田24.10.18笛吹調書(甲13P170)は、成立に争いない太田省次昭和二四年一〇月一八日笛吹調書(甲第一三号証一七〇ぺージ)の意味である。ただし、捜査段階の供述調書は、すべて昭和二四年に作成されているので、24の数字を省略して表示したものもある(したがつて、たとえば「太田10.18笛吹調書」は「太田昭和二四年一〇月一八日笛吹調書」の意味である)。ページ数は引用証拠書類の写しのページ数である。また、本判決理由中で「証言」というのは、とくにことわらないかぎり、刑事事件あるいは公務員職権濫用等起訴強制事件での証言を意味する。それから、本判決理由中の傍点は、その部分の意味をはつきりさせるために、当裁判所が付したものである。

なお、本判決理由中で引用した書証(供述調書等)の内容に明白な誤字、脱字、旧かなづかいなどがあるが、それは、原本の記載そのままを引用したものである。

ロ、当事者の主張

本判決理由のなかで引用した当事者の主張については、その主張部分の末尾に、どの書面の何ページでそのような主張をしているかを表示した。たとえば、(第四準備書面P170(190))、(被告第四準書P170(190))、(被告第五準P170)などの表示は、それぞれ昭和四一年一〇月二九日付被告第四回準備書面の一七〇ページ、昭和四二年九月二〇日付被告第五回準備書面の一七〇ページの意味であり、とくに(被告第四準書P170(190))とある( )のなかの数字は、本判決の末尾の「引用書類」のなかのページ数を表示したものである。

ハ、時刻

本判決理由中の時刻の表示は、当時施行されていた夏時刻制による。たとえば「午前四時一〇分」は、標準時の午前三時一〇分である。

なお、本判決理由の説明の便宜のため、つぎの三枚の図面をかかげる。

本判決は四分冊にする。ただし、全体の構成をあきらかにするために、総目次を各分冊のはじめにそれぞれかかげる。

第一図面(赤間自白における福島・松川間往復コース見取図)<省略>

第二図面(事件関係場所を中心とした福島市街略図)<省略>

第三図面(昭和二四年八月当時の国鉄労働組合事務所)<省略>

目次

主文

事実

理由

第一章 事件の経過および問題点

第一節 事件の経過

(一) 列車転覆事故の発生

(二) 捜査の経過

(三) 起訴

(四) 検察官の具体的主張

(1) 動機

(2) 八月一二日の電話連絡

(3) 八月一三日の国労福島支部事務所の連絡謀議

(4) 八月一三日の松川労組事務所の連絡謀議(岡田による)

(5) 八月一三日の東芝側だけの謀議

(6) 八月一五日の国労福島支部事務所の国鉄側だけの謀議

(7) 八月一五日の国労福島支部事務所の連絡謀議(佐藤一による)

(8) 八月一五日の東芝側の謀議(佐藤一の報告)

(9) 八月一六日の松川工場の連絡謀議(加藤謙三による)

(10) 八月一六日の東芝側だけの謀議

(11) アリバイ工作

(12) バール・スパナの盗み出し

(13) 線路破壊作業とその結果

(五) 公判の経過

第二節 問題点

第一、時効の抗弁について

第二、捜査、公訴提起、公訴追行の違法性、故意、過失の判断基準

一、はじめに

二、違法性の判断基準―形式的適法要件

三、違法性の判断基準―実質的適法要件

(一) 捜査権、公訴権を行使すること自体についての適法要件

(二) 捜査権、公訴権の行使の仕方についての適法要件

四、故意、過失

五、犯罪事実の存否の判断と国家賠償請求権の存否の判定との関係

六、予想される反対意見とそれに対する当裁判所の見解

(一) 反対意見

(二) 反対意見に対する当裁判所の見解

<編註・第二章〜第八章省略・参考のため目次のみ掲げる>

第二章佐藤一の「八月一五日連絡謀議」のアリバイ

第一節 問題点

第二節 諏訪メモ、田中メモおよびその筆者の供述

(一) 諏訪メモと田中メモ

(二) 諏訪メモと田中メモについての捜査の経過

(三) 西肇24.10.29吉良調書の内容とその意味

(四) 西肇24.10.29吉良調書の信用性

(五) 諏訪親一郎35.2.13吉良敬三郎調書について

――西肇の供述に対する反証となりうるか

(1) 諏訪の一〇年後の記憶は正確か

(2) 西肇の供述に対する反証となるか

(六) まとめ

第三節 諏訪メモと田中メモの記載内容の検討

(一) はじめに

(二) 諏訪メモの午前の記載

(三) 田中メモの午前の記載

(四) 午前、午後にわたる団交の経過について

(五) まとめ

第四節 他の団交出席者の供述

(一) はじめに

(二) 鷲見供述のあやまり

(三) 田中秀教の供述

(四) まとめ

第五節 佐藤一の昼休みの行動

(一) はじめに

(二) 木村ユキヨの供述

(三) 紺野三郎(松川労組執行委員)の供述

(四) まとめ

第六節 佐藤一の午後の行動

(一) 西山スイ、高橋勝美、本田基の各供述の相互閣連について

(二) 本田基の供述の信用性について

(1) 本田基が「佐藤一から直接言われたのでない」と証言したことについて

(2) 本田基24.9.27遠藤調書の「佐藤一がビラを自転車で松川駅まで持つて来てくれた」ということを、本田基が法廷で証言していないということについて

(3) 本田基24.9.27遠藤調書の「佐藤一がビラを自転車で松川駅まで持つて来てくれた」ということを、佐藤一自身が言つていないということについて

(4) 八月一五日、本田基といつしよに福島ヘビラはりに行つたほかの者(伊藤昇ら)が本田基の言つているようなことを、言つていないということについて

(5) 本田基の供述が二階堂園子の供述と「矛盾する」ということについて

(三) 石田宮子の供述

(四) まとめ

第七節 八月一五日正午すぎの国労福島支部事務所の状況にについて

(一) はじめに

(二) 田村千枝子の供述

(三) 謀議の場所の不合理性

(四) まとめ

第八節 結論

第九節 予想される反対意見とこれに対する反ばく

(一) 西肇24.10.29吉良調書の解釈について(第二節参照)

反対意見

当裁判所の判断

(1) はじめに

(2) 「反対意見」の「解釈」について

(3) 吉良慎平検事の証言について

(4) 西肇の証言について

(5) 刑事事件の段階での検察官の解釈

(6) 吉良調書の「ニュアンス」または「微妙な表現」ということについて

(二) 午前の団交のおわりの状況について(第二、三節参照)

反対意見

当裁判所の判断

(三) 鷲見供述のあやまりについて(第四節(三)参照)

反対意見

当裁判所の判断

(四) 佐藤一の午後の行動について

反対意見

当裁判所の判断

(五) 結論について

反対意見

当裁判所の判断

第三章太田自白を中心とする謀議関係についての考察

第一節 八月一五日国労事務所の連絡謀議

第一、太田自白の変化と諏訪メモの関係

一、変化の内容と変化の経過

二、第一次太田自白の成立の原因―太田の錯覚ではない

第二、第一次太田自白の成立の原因―第一次太田自白と赤間自白

第三、捜査官の想定は、どのようにして生れたか

八月一五日連絡謀議における高橋の出席の問題

第四、まとめ

第二節 八月一五日連絡謀議についての加藤自認について

第三節 八月一三日の国労福島支部事務所の連絡謀議の不存在―太田自白の虚偽

一、太田自白の内容

二、八月一三日正午ごろの支部事務所の状況

――小川市吉と小針一郎の供述

三、小針、小川の時刻の供述の正確性

四、小川、小針の供述と太田自白

五、大橋、羽田両書記の存在と太田自白

六、その他の状況と太田自白

七、結論

第四節 八月一三日連絡謀議について太田自白はどのようにして作られたか

一、太田自白の変化と変化の経過―太田自白と「不定時入出門票」

二、太田のはじめの供述

三、第一次太田自白を生んだ捜査官の想定

(一) 松川出発時刻についての想定

(二) 岡田についての想定

(三) 佐藤一の出席の有無について

第五節 八月一三日連絡謀議についての加藤自認について

第六節 八月一五日午前の国鉄側だけの謀議

第一、高橋、蛭川のアリバイと一五日謀議

一、赤間自白の内容

二、10.1山本調書二九項の記載について

三、赤間自白と現実との相違

四、被告の主張とその不合理性

五、まとめ

第二、謀議の場所の不合理性

第三、本田供述について

第四、加藤自認について

第五、実行行為についての本田アリバイと八月一五日謀議―結論

第七節 まとめ

第八節 予想される反対意見とこれに対する反ぱく

反対意見

当裁判所の判断

第四章転覆謝礼金自白

第一節 転覆謝礼金自白の内容

(1) 太田自白

(2) 大内自白

(3) 菊地自白

(4) 小林自白

(5) 浜崎自白

第二節 転覆謝礼金自白の意味

第三節 赤間自白との関係

第四節 結論

第五章佐藤一と斎藤千の「八月一三日謀議」のアリバイ

第一節 序論

第二節 佐藤一の八月一三日のアリバイ

第一、問題点

第二、佐藤一は青年部常任委員会に何時までいたか

一、青年部常任委員会出席者の供述

(1) 久能正二の証言

(2) 野地吉之助の証言

(3) 西山スイの証言

二、前掲各供述を裏づける証拠

(1) 太田、大内の供述

(2) 橋本太喜治の供述

(3) 佐藤代治の供述

三、諏訪親一郎の供述と諏訪メモBの記載は右の反証となるか

第三、「団交開催要求の交渉」の出席者の供述

第四、鷲見誡三および西肇の供述

第五、被告の援用する証拠について

(1) 田中秀教の供述

(2) 小林、浜崎の供述

(3) 二階堂園子の供述

(4) 高橋稔の供述

(5) 草野嘉の供述

(6) 「加藤自認」について

第六、結論

第三節 斎藤千の八月一三日のアリバイ

第一、問題点

第二、八月一三日午前中の、斎藤千の郡山市での行動についての証拠

一、来訪者芳名簿と宍戸供述

二、宍戸供述と島田静子供述

三、宍戸供述と渡辺郁造および斎藤の供述

第三、八月一三日正午頃の国労福島支部事務所の状況についての証拠

一、太田自白、加藤自認、その他、八月一三日国労福島支部事務所の連絡謀議そのものの存否に関する証拠

二、斎藤千の所在にいつてのその他の証拠

(イ) 羽田照子の供述

(ロ) 菅野ケサ子の供述

(ハ) 本田の供述

(ニ) 高橋の供述

第四、結論

(以上 四分冊の一)

第六章本田アリバイの検討

第一節 序論

第二節 本田の主張および証拠の概観

第三節 木村泰司の供述

第一、木村供述の重要性

第二、変更前の木村供述と本田の主張の合致

第三、木村が変更前の供述をおこなつたのはなぜか―錯覚ではない

第四、木村が変更前の供述をおこなつたのはなぜか―意識的に嘘を言つたのではない

第五、木村の供述変更の経過(小尾、村瀬と関連して)

一、はじめに

二、捜査官が木村に圧力をかける可能性

三、供述変更と10.5宮川調書

四、10.5宮川調書と小尾、村瀬

五、10.5宮川調書は木村の「自由な記憶の整理」によるものではない

六、小尾供述と本田アリバイ

七、小尾、村瀬(とりわけ小尾)と木村の供述変更

第六、木村の主張する変更後の供述の正確性の根拠は薄弱である

第七、本田が泊つた日が一六日以外にありうるか―ありえない

一、はじめに

二、一六日でなかつたら一四日である

三、木村ののべる本田の泊つた夜から翌朝にかけての状況は一六日夜から一七日朝にかけての状況ばかりである

四、木村、羽田、菅野の三人の供述の合致

五、木村は、本田が泊まつたのは一六日夜だとのべている

六、被告の主張

七、本田は一四日夜岡田の部屋に泊まらなかつたか

八、草野嘉の供述について

九、まとめ

第八、木村の法廷供述

第九、むすび

第一〇、木村供述の他の証拠との関係

第四節 電話関係

第一、序説

第二、郡山分会事務所からの電話

一、はじめに

二、第一回目の電話

三、第二回目の電話の存在について

(一) はじめに

(二) 古川朝男の供述

(三) 薄井の供述

(四) 斎藤、宍戸の供述

(五) 木村の供述

四、電話の相手方(電話の内容からの判断)

五、電話の相手方(薄井供述)

六、電話の相手方(古川の役員問答について)

(一) はじめに

(二) 古川供述出現の経過

(三) 古川供述の信頼性と古川供述の持つ意味

(四) まとめ

七、郡山分会事務所からの電話の時刻

(一) はじめに

(二) 福島支部事務所の側からの検討

(三) 郡山分会事務所の側からの検討

(四) 岩代熱海厚生寮の側からの検討

(五) まとめ

八、木村、松崎らの起床時刻

(一) はじめに

(二) 木村の供述

(三) 松崎の供述

(四) 村瀬、小尾の供述

(五) 再び木村の供述について

(六) 本田の供述

(七) まとめ

九、起床後の木村、松崎らの行動

一〇、「千さん、久さん」の問題および古川が電話の中断についてのべていないことについて

第三、相楽電話

一、はじめに

二、相楽電話の存在

三、相楽電話の相手

四、相楽電話の内容について

五、相楽電話の時刻

(一) はじめに

(二) 被告の主張

(三) 被告の主張のあやまち

(四) 相楽供述を全体として評価していないという欠陥について

(五) 電話の時刻についての相楽の記憶の正確さについての評価をあやまつているという欠陥について

1 相楽の供述自体の中には「四時一〇分」の正確さの保証はない

2 相楽の供述以外の証拠からの判断

3 当民事事件になつてからの相楽供述

(六) まとめ

六、相楽電話に関連するいくつかの問題について

(一) 松崎、村瀬、小尾の供述について

(二) 本田が相楽に電話したのち、ふたたび眠り込んでしまつた、ということについて

(三) 9.23三玉川調書に、相楽電話についての記載がないことについて

(四) 大島功の供述について

(五) 電話の時刻に関する本田の法廷供述

第四、斎藤電話

一、本田の主張

二、斎藤の供述

三、斎藤供述の根拠

四、「八時ごろ」はあてにならない

五、羽田に関する斎藤の供述もあてにならない

六、羽田と矢部の供述

七、まとめ

第五、阿部電話(福島保線区からの電話)

第六、むすび

第五節 本田が一六日夜国労福島支部事務所に泊まるまでのいきさつ

第一、序説

第二、本田とヒサ子が別れた時刻―時刻の供述はあてにならない

第三、本田とヒサ子が別れた時刻―雨を資料とすることもできない

一、測候所に記録された雨および雨に関する本田とヒサ子の供述

二、雨を資料として本田アリバイを否定する有罪意見の論理

三、有罪意見の論理が成立するために必要な前提条件

四、条件はみたされているか

(一) 雨の程度

(二) 雨はどこにも同じようにふつたか

(三) 雨に関する本田とヒサ子の記憶の信頼度

(四) 斎藤満、武田久の供述

五、被告の主張

六、雨もまた確実な資料ではない

第四、本田とヒサ子が別れた時刻は確定できない

第五、本田が国労福島支部事務所に到着したときの状況の目撃者

一、一一時以前

二、一一時以後

(一) 木村泰司

(二) 松崎七郎

(三) 村瀬武士、小尾史子

(四) 前田幸作

1 捜査段階での前田の供述と被告の主張

2 前田が忘れていてもおかしくない

3 前田は、本田が来た記憶を持つていなかつたか

4 要旨

(五) 阿部市次

1 疑いのない事実と阿部の主張

2 被告の主張

3 公判段階での阿部の供述の内容

4 阿部の供述の持つ意味―被告の主張のあやまち

5 阿部の供述の持つ証拠価値―阿部は嘘を言つたのか

6 阿部と本田の国労福島支部到着時刻

7 まとめ

第六、国労福島支部事務所に到着したときの状況についての本田の供述の変遷について

第七、むすび

第六節 八月一七日朝の国労福島支部事務所の状況

第一、序説

第二、組合関係者の集まつた時刻

第三、関係者の供述

一、はじめに

二、木村泰司

三、羽田照子、菅野ケサ子

(一) 羽田と菅野の供述内容

(二) 被告の主張

(三) 二人の供述には「変遷」も「暖昧」もない

(四) 「確認」の持つ意味――「確認」の有無は重要ではない

(五) 渡辺郁造11.12山本調書について

(六) 二人が起きるときの具体的状況をのべていないことについて

(七) 七まとめ

四、松崎七郎

五、小尾史子

六、村瀬武士

(一) 村瀬の供述の内容

(二) 被告の主張

(三) 村瀬が本田を知つていた程度

(四) 村瀬が本田の宿泊を記憶していなくてもおかしくない

(五) 村瀬は9.23宮田調書作成当時、本田が泊まつていないことを確言していたか

(六) 村瀬供述の証拠価値

七、矢部寛一郎

(一) 矢部の供述内容

(二) 矢部の供述の信用性を失わせる方向に働く証拠―羽田照子の供述

(三) 羽田供述の信頼性を失わせる資料

1 羽田は、「本田らしい男」が一起きるときの状況をおぼえていない

2 矢部が来ていたと言う者がいる―飯沼、加藤、高橋の供述

(四) 羽田の供述はそのままでは信頼できない

(五) 被告の主張

(六) 要旨

八、まとめ

第七節 本田は八月一七日朝自宅へ帰つたか

第一、序説

第二、鈴木マサミの供述

第三、本田クメ、本田岩吉の供述

第四、むすび

第八節 結論

第九節 予想される反対意見とこれに対する反ぱく

(以上 四分冊の二)

第七章赤間自白の検討

第一節 序論

第二節 赤間自白の真実性を疑わせる資料

第一、序説

第二、永井川信号所南部踏切通過について

一、赤間自白の内容

二、赤間の主張

三、八月一六日当夜の南部踏切の現実の姿

四、問題点

五、問題点の一―赤間ら三人がその夜の南部踏切を通る気持になるということがありうるか

六、問題点の二―赤間が自白の中でのべた八月一六日夜の南部踏切の状況と現実の状況との同異

七、問題点の三―赤間ら三人は踏切警戒の者達に気づかれずに南部踏切を通過できたか

八、問題点の四―南部踏切通過に関する捜査経過

九、まとめ

第三、高橋、蛭川と一五日国鉄側謀議

第四、帰路の変更について

一、赤間の主張

二、赤間を取り調べた捜査官の供述

三、原二審判決の判断

四、赤間の主張する山道は存在する

五、9.19玉川調書の記載内容

六、9.19玉川調書の記載の正確性

七、赤間は9.19玉川調書を検討する前からその内容を主張していた

八、供述変更の有無に関する赤間の主張は真実である

九、供述変更のいきさつ

一〇、検察官、被告の主張

一一、帰路の変更の問題の持つ意味

第五、出発集合地点およびそれに続く往路の一部の供述変更について

一、赤間の主張

二、赤間を取り調べた捜査官の主張

三、原二審判決の判断

四、新たな証拠の提出

五、供述変更のいきさつについての両当事者の主張

六、赤間の主張を裏づける資料

イ、供述変更という事実そのもの

ロ、供述変更の経過につき赤間は明確に説明しているのに、赤間を取り調べた捜査官は合理的な説明ができないこと

ハ、変更前の供述のままだと赤間自白の信用性を大きく傷つけるような事情が存在したと見られること

ニ、供述変更の調書である9.21玉川調書は武田巡査部長の現場往復後作成されたと考えられること

七、被告の主張を裏づける資料

八、捜査官のまちがつた証言とそれに対する検察官の処置

九、まとめ

第六、線路破壊作業に関する赤間自白の不合理

第七、東芝側実行行為者の特定の経過

第三節 赤間が自白を始めるまでの経過

第一、序説

第二、赤間の主張

第三、被告の主張

第四、赤間予言を資料とする赤間の取り調べ

第五、赤間ミナの供述

一、はじめに

二、ミナはどのように記憶していたか

(一) 9.26山本調書の記載

(二) 9.26山本調書の記載から出てくる結論

(三) 9.17土屋調書の出現

(四) 9.26四山本調書と9.17土屋調書との同異

(五) 土屋巡査はミナの言いたいことをそのままあらわしているか

1 土屋調書の表現の不明瞭さとその正確な意味

2 土屋調書の不明瞭さの原因

3 赤間は「夜遅く」帰つてきた

4 ミナは朝方眼をさましたか

三、捜査官は、ミナの供述内容を赤間に対してどのように伝えたか

四、ミナ9.26山本調書の形成過程と検察官の公訴追行

五、まとめ

第六、共産党、国鉄労組憎悪の気持から党員、組合員を犯人に仕立てたとの赤間の主張の合理性

一、はじめに

二、赤間の主張する玉川警視のことば

三、赤間が玉川警視のことばを信じてもおかしくない

四、赤間が玉川警視の言うことを信ずるはずがないという見解は正しくない

五、無実の赤間が自白することは十分ありうる

六、自白内容や自白後の赤間の態度は赤間が無実であることと矛盾しない

七、まとめ

第七、共産党、国鉄労組について赤間は捜査官からどのように告げられていたか

一、はじめに

二、捜査官が虚偽の事実を告げることはありうる

三、自白中の赤間は共産党に対して非常な悪感情を持つていた

四、悪感情の原因はなにか

第八、むすび

第四節 赤間自白の真実性を担保すると主張されてきている諸資料について

第一、序説

第二、赤間予言の実体について

一、はじめに

二、赤間の主張

三、武田巡査部長の供述

四、一審法廷での安藤、飯島の供述

五、一審、原二審裁判所の判断

六、新たな証拠の提出と武田証言の虚偽性の明確化―武田供述中の問題点

七、武田供述の問題点の一―予言聞き込みの経過

八、武田供述の問題点の二―武田巡査部長が安藤、飯島から聞いた赤間のことば―予言ではなかつた

九、武田供述の問題点の三―安藤、飯島の供述は自発的な供述か

(一) はじめに

(二) 武田巡査部長の主張をくつがえす資料

イ、安藤9.6、飯島9.9両武田調書の記載中の「脱線があつた」ということば

ロ、安藤、飯島が「赤間の発言がおこなわれたのは一六日夜だつた」と記憶するための特別の事情がないこと

ハ、安藤が、武田巡査部長に赤間の発言について尋ねられたのち、間もなく飯島のところに行き、赤間の発言について確かめた、という事実が存在すること

ニ、飯島9.9武田調書中に記載されている八月一七日における赤間の言動

ホ、武田巡査部長の虚偽供述

(三) 武田巡査部長の供述を支える資料

イ、赤間、安藤、飯島は一七日に一緒になつたことがあつたか

ロ、安藤、飯島が、自己の軽微な犯罪の責任を逃れるため、親しい友人である赤間が重大犯罪の疑いを受けるような赤間にとつて不利な事実を、真実に反してまで供述するはずがないではないか、という主張について

ハ、九月一〇日、赤間、安藤、飯島の三人が対質したとき、安藤、飯島が、赤間から脱線のことを聞いたのは一六日夜だとがんばつたということについて

ニ、安藤、飯島が赤間逮捕前赤間に対し赤間から一六日夜脱線の話を聞いたと言つたことについて

ホ、赤間の発言が八月一七日おこなわれたものであるならば、もつと詳細な話があつて然るべきではないか、ということについて

ヘ、赤間の発言がおこなわれたのが一七日であるならば、半月以上もたつたのちまで安藤、飯島がそのことをおぼえているはずがなく、安藤、飯島がおぼえているのは、それがまだだれも事故について語つていない一六日夜のことだつたからである、という主張について

ト、安藤、飯島の、検察官、裁判官に対する供述について

チ、丹治信太郎ら差戻後二審以後になつて初めて登場した供述者の供述について

(四) 要旨

一〇、まとめ

第三、自白後の赤間の言動について

第四、東芝側実行行為者との出会い、および一一二号旅客列車とのすれ違いに関する赤間自白はどのようにしてできたか

一、はじめに

二、赤間の主張

三、玉川警視の供述

四、一一二号旅客列車との遭遇の事実

(一) 捜査当局は大西供述を重視していた

(二) 玉川警視は大西供述の内容を知つていた

(三) 玉川警視は大西供述の内容を赤間に告げたか

五、赤間と松川側実行行為者との出会い地点

六、松川からの実行行為者

七、まとめ

第五、森永橋たもとにおける休憩の事実について

一、はじめに

二、赤間の自発的供述

(一) 赤間の主張

(二) 赤間を取り調べた捜査官の供述

(三) 検察官、被告の主張

(四) 捜査官が赤間主張のような示唆をおこなう可能性

(五) 森永橋たもとでの休憩と9.21玉川調書

(六) まとめ

三、高橋鶴治の記憶の正確性

(一) 捜査段階での鶴治の供述の内容

(二) 鶴治の法廷供述

(三) 鶴治の供述調書の作成過程

(四) まとめ

四、むすび

第六、赤間失言について

一、はじめに

二、赤間の発言は正確であつたか

三、佐藤巡査の誤解の可能性

四、検察官の主張

五、まとめ

六、赤間失言と類似の問題について

第七、実行行為、謀議の共犯者の特定の経過

一、序論

二、実行行為者としての本田の特定

(一) 赤間の主張

(二) 赤間を取り調べた捜査官(玉川警視)の供述

(三) 玉川警視は本田を知つていた

(四) 赤間の主張がほんとうであることはありうる

(五) 赤間の主張がほんとうであることはほとんど疑いがない―玉川警視の供述

(六) まとめ

三、実行行為者としての高橋の特定

(一) 赤間の主張

(二) 赤間を取り調べた捜査官(玉川警視)の供述

(三) 高橋に関する捜査

(四) 玉川警視は高橋に関する捜査の結果を知つていた

(五) まとめ

四、東芝側実行行為者としての佐藤一、浜崎の特定

(一) 赤間の主張

(二) 赤間を取り調べた捜査官の供述

(三) 問題点

(四) 赤間の自白調書の記載はどうなつているか

(五) 9.19玉川調書(第一回調書)から9.20玉川調書(第二回調書)への変化

(六) 供述変更の原因―玉川警視が変えさせた

1 赤間の方から変えたとは考えられない

2 捜査官が変えさせることはありうる

3結局、玉川警視が変えさせたとしか考えられない

4 検察官の主張

(七) 9.19玉川調書から9.21玉川調書への変化

(八) 変化の原因―写真の検討

(九) 赤間の主張の変遷について

(一〇) 写真による特定の経過

(一一) 赤間の主張の裏づけ

イ、9.19玉川調書と9.21玉川調書(赤間はこのときには写真を見せられている)とのあいだの、松川からやつてきた実行行為者の特徴の記載の矛盾

ロ、赤間自白にあらわれる事件当夜の明るさ、脱線作業状況などから判断するかぎり、赤間が、浜崎と佐藤一との特徴を認識し、それを記憶していて、写真を見て二人を特定できたとは考えにくいこと

ハ、玉川警視が、赤間の質問に対し、赤間が写真を見ただけではわからないとのべていたことを答えていること

ニ、捜査官の方で、佐藤一、浜崎を実行行為者と想定したとの可能性を否定できないこと

ホ、9.19玉川調書から9・20玉川調書への変化

(一二) 玉川警視の供述の裏づけ

(一三) まとめ

五、謀議参加者としての本田、高橋の特定

六、一五日謀議参加者としての鈴木、二ノ宮、阿部の特定

七、蛭川の特定

八、謀議参加者として、武田、斎藤の名をあげなかつた理由

(一) はじめに

(二) 斎藤について

(三) 武田について

1 赤間の主張の変遷

2 検察官の主張

3 9.19玉川調書、9.23山本調書の記載

4 10.1山本調書、10.2唐松調書の記載

5 要旨

九、結論

第八、10.1山本調書二九項の記載について

第九、赤間が自白をひるがえす経過

一、はじめに

二、赤間の主張

三、赤間の主張を裏づける資料

四、多田牧師との面会の日

五、赤間に否認を決意させたもの

六、赤間の主張はできすぎているか

七、まとめ

第五節 結論

第六節 予想される反対意見とこれに対する反ぱく

第一、反対意見

第二、反対意見に対する当裁判所の反ぱく

第八章浜崎自白について

(以上 四分冊の三)

第九章 責任原因についての結論(総まとめ)

第一節 捜査、公訴の提起、追行についての違法性と過失

第一、序説

第二、赤間自白はどのようにして、生まれ、どのようにして挫折したか

一、赤間自白はどのようにして生まれたか

二、赤間のその後の供述変更とその不合理性

三、本田アリバイと、赤間自白の挫折(第六章参照)

四、八月一五日の謀議における高橋と蛭川のアリバイ――太田自白への発展の契機(第七章第二節第三、第四節第八参照)

五、永井川信号所南部踏切通過の虚偽(第七章第二節第二参照)

第三、赤間自白から謀議関係への発展とその挫折

一、はじめに

二、八月一五日の国労福島支部事務所での「連絡謀議」

三、八月一三日の国労福島支部事務所での「連絡謀議」

四、八月一三日の岡田による「連絡謀議」

五、八月一六日の松川労組事務所での「謀議」

第四、むすび

第二節 検察官の公訴追行上の過失

第一、序説

一、検察官の真実義務

二、検察官と被告の見解

三、検察官と被告の見解の誤り

四、本節の課題

第二、諏訪メモ、田中メモと西肇10.29吉良調書

第三、郡山市警察署の来訪者芳名簿と宍戸金一の供述

第四、赤間自白の信用性に関する証拠についての検察官の行為

第五、その他の証拠

第六、むすび

第三節 予想される反対意見とこれに対する反ぱく

反対意見

当裁判所の判断

第一〇章 損害

第一節 得べかりし利益

第二節 慰藉料

第三節 差し引くべき刑事補償の金額および賠償金額

第四節 謝罪文掲載

第五節 結論

(引用書類)

昭和四一年八月八日付請求の趣旨並に原因訂正申立書<省略>

昭和四一年七月二八日付原告準備書面(第六)<省略>

昭和四一年八月八日付原告準備書面(第七)

<省略>

訴状抜すい<省略>

昭和四一年一〇月二九日付被告準備書面

(第四回)<省略>

当審で施行した証拠一覧<省略>

当事者目録<省略>

文案目録(請求の趣旨第二項で求める新聞広告文案)<省略>

(以上 四分冊の四)

主文

被告は

原告 鈴木信に対し

金 六、八八五、二七〇円

同  鈴木ヤイに対し

金 一、〇〇〇、〇〇〇円

同  二ノ宮豊に対し

金 四、八七二、〇九六円

同  二ノ宮キクに対し

金 六〇〇、〇〇〇円

同  阿部市次に対し

金 五、八五九、二九六円

同  本田昇に対し

金 六、九〇〇、八七〇円

同  赤間勝美に対し

金 三、四九六、五六〇円

同  高橋晴雄に対し

金 三、七九四、九〇八円

同  高橋キエに対し

金 五〇〇、〇〇〇円

同  加藤謙三に対し

金 二、一四四、九三八円

同  佐藤一に対し

金 七、八六九、七八七円

同  浜崎二雄に対し

金 二、一四二、八五〇円

同  杉浦三郎に対し

金 六、八九二、五三四円

同  杉浦よしに対し

金 一、〇〇〇、〇〇〇円

同  太田省次に対し

金 四、〇八八、一六〇円

同  太田スミに対し

金 五〇〇、〇〇〇円

同  佐藤代治に対し

金 二、一四三、七一四円

同  大内昭三に対し

金 二、〇五二、二〇〇円

同  小林源三郎に対し

金 二、〇五三、一一二円

同  二階堂武夫に対し

金 二、一四四、一六四円

同  横谷園子に対し

金 一、九八八、二四四円

同  菊地武に対し

金 二、〇五三、四〇〇円

同  斎藤友紀雄に対し

金 一、五二八、一五二円

同  武田久に対し

金 二、四五五、二五二円

同  岡田十良松に対し

金 一、二九六、二六四円

およびこれに対するそれぞれ昭和三八年九月一三日から支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、これを一〇分し、その一は全部敗訴の原告らの、その四はその余の原告らの、その五は被告の各負担とする。

事実

原告ら訴訟代理人は、別紙昭和四一年八月八日附請求の趣旨並に原因訂正申立書第一項記載の判決および「被告は、原告鈴木信、同二ノ宮豊、同阿部市次、同本田昇、同赤間勝美、同高橋晴雄、同加藤謙三、同佐藤一、同浜崎二雄、同杉浦三郎、同太田省次、同佐藤代治、同大内昭三、同小林源三郎、同二階堂武夫、同横谷園子、同菊地武に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の各朝刊全国版及び福島県下において発行される福島民報、福島民友新聞の各朝刊のそれぞれに各一日、社会面において、三段抜きで、見出し「謝罪文」の三字は一号活字、字間各五号全角あき、被告及び右原告らの氏名及び松川事件元被告の各肩書の表示はいずれも三号ゴチック活字、字間なし、本文及び日附は四号活字、宇間は五号全角あきとして、別紙文案目録記載のとおりの広告をせよ。」との判決ならびに金銭の支払いを求める部分について仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、別紙昭和四一年七月二八日附(第六)、同年八月八日附(第七)準備書面および訴状四の二、三、四項(訴状P73―87)のとおりのべ、被告抗弁に対し、「被告の抗弁は争う。本件損害賠償請求権の消滅時効は、無罪判決確定のときから進行をはじめるものであるから、時効は完成していない」とのべた。

被告訴訟代理人は、「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする」との判決を求め、請求原因に対する答弁として、「原告ら主張の列車事故がおこつたこと、これについて、捜査がおこなわれ、原告鈴木信、同二ノ宮豊、同阿部市次、同本田昇、同赤間勝美、同高橋晴雄、同武田久、同岡田十良松、同斎藤千、同加藤謙三、同佐藤一、同浜崎二雄、同杉浦三郎、同太田省次、同佐藤代治、同大内昭三、同小林源三郎、同二階堂武夫、同横谷園子、同菊地武がそれぞれ原告ら主張の日に列車転覆致死の容疑で逮捕、勾留され、そのうち、原告赤間勝美、同浜崎二雄、同太田省次、同大内昭三、同小林源三郎、同菊地武、同横谷園子が犯行を自白し、原告加藤謙三が不利益事実を自認したこと、および公訴提起から判決確定にいたる公判手続の経過は認めるが、警察官、検察官の故意、過失、違法行為および原告らの受けた損害の主張事実はすべて争う。捜査は適法におこなわれ、検察官は適法に集めた証拠にもとづいて公訴を提起し、維持した。最終的には、検察官の見解とことなる裁判所の判断が下されただけで、検察官および警察官には故意も過失もない。その主張の大要は、別紙昭和四一年一〇月二九日附被告第四準備書面記載のとおりである。諏訪メモなど差戻後二審で提出した証拠を、一審、原二審で提出しなかつたのは、不必要と認められたからであつてかくしたわけではない」とのべ、抗弁として、「かりに、原告主張の違法行為があつたとしても、消滅時効がその行為のときから進行するから、これにもとづく損害賠償請求権は、すでに時効により消滅している。また、刑事事件の被告人であつた原告らの刑事事件の訴訟追行の仕方についても過失があつたので、過失相殺を主張する。」とのべた。

証拠関係は、別紙証拠目録(当審で施行した証拠調一覧)記載のとおりである。

理由

第一章  事件の経過および問題点

第一節  事件の経過

つぎの事実は、当事者間に争いがない。

(一)  列車転覆事故の発生

昭和二四年八月一七日午前三時九分ごろ(夏時刻、以下同じ)青森発奥羽線回り上野行き上り四一二号旅客列車が、東北本線金谷川駅と松川駅のあいだの東京起点二六一キロ二五九メートル四〇センチの地点にさしかかつたとき、前部機関車が脱線転覆し、これに続く数車輛も脱線し、その結果右機関車に乗つていた機関手三名が死亡した。

(二)  捜査の経過

捜査当局は、ただちに現場を検証し、右の事故は、レールを枕木の上に固定している犬釘、チョックの抜き取り、およびレールとレールを接続している継目板の取りはずしによる線路破壊工作にもとづく人為的事故であると判断し、列車転覆致死被疑事件として捜査を開始した。

そして、捜査の結果、同年九月二一日に赤間、高橋、本田、浜崎、佐藤一、二ノ宮、鈴木および阿部が、同年一〇月四日に、杉浦、太田、佐藤(代)、大内および小林が同月八日に菊地が、同月一六日に二階堂武夫および園子が、同月二〇日に武田、斎藤、岡田および加藤が、いずれも、右の列車転覆致死被疑事件の被疑者として逮捕され、引き続き勾留され、それぞれ取り調べがおこなわれ、赤間、浜崎、太田、大内、小林、菊地および園子が自白した。

(三)  起訴

福島地方検察庁は、安西検事正の指揮のもとに右被疑者らについて捜査をおこない、赤間、高橋、本田、浜崎、佐藤一、二ノ宮、鈴木および阿部については同年一〇月一三日に、杉浦、太田、佐藤(代)、大内、小林および菊地については同月二六日に、二階堂武夫および園子については同年一一月七日に、武田、斎藤および加藤については同月一二日、岡田については、同年一二月一日に、いずれも列車転覆致死被告事件として、福島地方裁判所に公訴を提起した。

右公訴事実の要旨は、「原告らは順次共謀のうえ、昭和二四年八月一七日午前二時ごろから約三〇分間にわたり東北本線金谷川駅と松川駅とのあいだの東京起点二六一キロ二五九メートルの地点附近で、バールとスパナをつかつて線路の犬釘とチョックを抜き取り、継目板を取りはずして、線路破壊作業をおこない、同日午前三時九分ごろ、同所にさしかかつた青森発奥羽線廻り上野行き上り四一二号旅客列車の前部機関車を脱線転覆させ、これに続く数車輛を脱線させ、右機関車に乗つていた機関手三名を死亡させた」というものであつた。

なお、岡田は、同年一一月一二日、起訴前の期限切れとなつて、一旦釈放されたが、右の公訴提起にともない、同年一二月四日ふたたび勾留された。

(四)  検察官の具体的主張

右の公訴提起にもとづいて、福島地方裁判所で開かれた公判の過程で、検察官は、右の公訴事実をつぎのとおり具体化して主張した。

(1) 動機

当時、武田は国鉄労組(国労)福島支部執行委員長、斎藤、本田は同支部執行委員、阿部は同支部書記、鈴木は同支部福島分会執行委員長、高橋は同分会執行委員、岡田は福島地区労働組合会議(地区労)書記長、加藤は同地区労書記、二ノ宮は東北文化商事株式会社(国労、全逓等の失業者を集め、これらの労組員に日用品、文房具などを売らせることを業務としていた会社)福島出張所営業係であつた。なお、岡田、加藤、二ノ宮は、国鉄退職者で、もと国鉄労組の幹部であつた。赤間は、もと国鉄線路工手で、昭和二四年七月五日第一次行政整理で退職したが、当時公判が開かれていた伊達駅事件(伊達駅長に対する労組員の集団暴行事件)の被告人になつていて、その公判の打ち合わせなどのため、国労福島支部事務所に出入りしていた。

杉浦は、東芝松川労組執行委員長、太田は同副委員長、佐藤(代)は執行委員(青年部副部長)、二階堂武夫は宣伝部長、大内、菊地、小林、浜崎は組合員(青年部員)、園子は有給書記であり、佐藤一は東芝労働組合聯合会中央執行委員であつて、松川労組の人員整理反対斗争を支援するため、昭和二四年八月一一日から同月二五日までのあいだ、オルグとして派遣されて来ていた。

そして、国鉄労組も東芝労組も当時人員整理反対闘争をしており、友誼団体として、たがいに協力してたたかつていた。

ところで、右国鉄労組の組合活動に関連して起こつた福管事件(昭和二四年七月四日)と伊達駅事件(同月七日)で、多くの組合員が検挙されたこともあり、その他一般状勢の悪化から、武田、鈴木ら国鉄労組の幹部のあいだには、政府の首切り政策に対する報復、国民に対する国鉄の荒廃の宣伝、警察力の分散による組合弾圧の緩和を目的として、人為的列車事故をおこそうという気持が生まれ、一方東芝松川労組でも、多くの組合員が福島県会赤旗事件(六月三〇日)に関係して検挙されたことから、杉浦ら組合幹部は、首切り反対闘争に対する警察当局の干渉を避けるため、警察力を他に転ずるような重大事件がおこればよいと考えるようになつていた。

(2) 八月一二日の電話連絡

このような情勢のもとで、昭和二四年八月一二日午前九時ごろ国労福島支部の阿部から、東芝松川労組委員長杉浦に電話がかかつて来て、翌一三日正午ごろ国労福島支部事務所で重要な打ち合わせのため会合を開くから出席してほしい、と連絡して来た。しかし、杉浦は、争議中でいそがしかつたので、副委員長太田と佐藤一にかわつて出席することを頼み、太田と佐藤一はこれを承諾した。

(3) 八月一三日の国労福島支部事務所の連絡謀議

そこで、太田と佐藤一は、翌八月一三日午前一一時一五分松川発の汽車で福島へ行き、午前一一時五〇分ごろ国労福島支部事務所に着いた。そのときには、すでに、国鉄側の武田、斎藤、鈴木、二ノ宮、阿部、本田、高橋および加藤は、集まつていて、太田と佐藤一がこれに加わつて謀議をはじめ、国鉄側と東芝側が協力して列車転覆事故を起こすこと、およびその具体的な方法を打ち合わせるため同月一五日正午ごろ、ふたたび同事務所に集まることをきめて、解散した。

そして、太田と佐藤一は午後五時ごろの汽車で松川に帰り、八坂寮真の間で杉浦に謀議の結果を報告し、杉浦もこれに賛成した。

(4) 八月一三日の松川労組事務所の連絡謀議(岡田による)

一方、岡田は、東芝側と謀議するため、同日午前一一時すぎに国労福島支部事務所を出て、同日正午ごろ松川労組事務所に着き、一二時四、五〇分ごろ、同労組事務所で杉浦、佐藤(代)、二階堂武夫と会い、国鉄側に列車転覆計画のあることを打ち明け、東芝側の協力をもとめ、その承諾をえた。

(5) 八月一三日の東芝側だけの謀議

同日午後一時ごろ、二階堂武夫は、大内、小林、菊地、浜崎に対し、(4)の謀議の結果を伝え、その協力を求め、承諾をえた。

(6) 八月一五日の国労福島支部事務所の国鉄側だけの謀議

そして同月一五日午前一一時ごろ、鈴木、二ノ宮、阿部、本田が国労福島支部事務所に集まり、そこへ赤間が来て、これに加わり、謀議がおこなわれた(赤間は八月一三日に同事務所で、おこなわれた伊達駅事件関係者の打ち合わせ会をおわつて、帰るときに、阿部から一五日にも来るようにいわれていた)。その結果、八月一七日午前〇時すぎの列車を転覆させること、線路破壊の場所は、松川駅と金谷川駅のあいだの前記カーブのところとすること、東芝側から二、三名の手伝いを出してもらうこと、国鉄側から線路破壊作業に出る者は、本田、高橋、赤間の三名として、八月一六日一二時ごろ伏拝の農業協同組合のうしろで待ち合わせること、右の作業につかう道具は、東芝側の参加者に頼んで松川線路班倉庫から盗み出してもらうことなどが、きめられた。赤間は、右の謀議をおわつたのち、正午すこし前に、同事務所を出て行つた(第一審では、検察官は、この謀議に加藤謙三と佐藤一が出席したと主張したがこの主張は、後に撤回された)

(7) 八月一五日の国労福島支部事務所の連絡謀議(佐藤一による)

赤間が出て行つてから間もなく、正午ごろ、一三日の連絡謀議(前記(3)の謀議)の約束どおり、東芝側から佐藤一が来たので、鈴木、二ノ宮、阿部、本田と佐藤一の五名のあいだで、右の(6)謀議と同じように線路破壊作業をおこなう日時場所、双方から出すべき人員、役割などを打ち合わせ、正確な時刻はのちに国鉄側から東芝側へ連絡することにしてわかれた。

(8) 八月一五日の東芝側の謀議(佐藤一の報告)

佐藤一は右(7)の謀議をおわつたのち、松川工場へ帰り同日午後五時半ごろ、同工場八坂寮真の間(佐藤一の居室)で杉浦と太田に(7)の謀議の結果を報告し、東芝側から線路破壊作業に出る者を佐藤一と浜崎の両名とし、大内、菊地、小林に松川線路班倉庫から、右の作業につかうバールとスパナを盗み出させること、アリバイを作るため、一六日夜、二階堂武夫と園子を労組事務所に寝ないで起きていさせることなどを打ち合わせた。

(9) 八月一六日の松川工場の連絡謀議(加藤謙三による)

加藤は、翌一六日午後から東芝松川工場でおこなわれた組合大会に出席し、右大会がおわつたのち、午後八時四〇分ごろ、松川工場八坂寮組合室で、杉浦、太田、佐藤一、佐藤(代)、浜崎、大内に対し(6)の謀議にもとづく連絡として、転覆させる列車は、午前二時五〇分福島発上りの旅客列車で、その前の貨物列車は運休になつたので、線路破壊作業の時間は充分にあること、国鉄側から本田、高橋、赤間の三名が出ることになつていること、東芝側から出る二名は、バールとスパナを持つて来てもらいたいことを伝え、杉浦らは、これを承諾した。

(10) 八月一六日の東芝側だけの謀議

加藤が帰つたのち、午後九時三〇分ごろ、杉浦、太田、佐藤一、佐藤(代)、浜崎、小林、大内、菊地が右組合室で話し合い、杉浦がそれまでに決定された列車転覆計画を説明し、小林、大内、菊地は一二時ごろまでに松川線路班倉庫からバールとスパナを盗み出しておくこと、佐藤一と浜崎は、それを持つて午前二時ごろまでに予定の現場へ行くこと、アリバイを作つて死んでも口外しないことなどを指示し、一同はこれを承諾した。なおアリバイを作るために、その夜小林、菊地、大内、浜崎は、組合事務所に泊まり二階堂武夫と園子を同事務所に起きていさせることも申し合わせた。

(11) アリバイ工作

右の謀議ののち、同夜一〇時ごろ、杉浦は、二階堂武夫と園子を松川労組事務所前の道路上に呼び出し、小林、大内、菊地、浜崎とともに組合事務所に泊まり、起きていて、右四名のアリバイを作ることを頼み、武夫と園子はこれを承諾し、その夜組合事務所に泊まり、八月一七日午前二時ごろまで起きていた。

(12) バール、スパナの盗み出し

(10)の謀議にもとづき、小林、大内、菊地は、その夜一〇時半ごろ、バールとスパナ各一本を盗み出して、松川労組事務所入口附近に置いた。

(13) 線路破壊作業とその結果

右の一連の謀議にもとづき、佐藤一と浜崎は、右のバールとスパナを持つて松川労組事務所を出発し、金谷川方面にむかい、線路沿いに歩いて行くうちに、同夜一二時ごろ福島市を出発し、線路沿いに反対方向から歩いて来た国鉄側の本田、高橋、赤間と、松川駅上り遠方信号機から下り方向に五、六〇米離れたところで出あい、五名が一緒になり、そこからさらに下り方向に線路沿いに進み(すなわち国鉄側の本田らは引き返し)、午前二時ごろ、東京起点二六一キロ二五九メートル附近の予定現場に着き、高橋と本田がスパナをつかつて継目板の取りはずし作業をはじめ、赤間、佐藤一、浜崎は交替でバールをつかつて二五メートル軌条一本目の外軌外側の大部分と二本目の八分目ほどの犬釘と、チョックを抜き取り、さらに、右の継目板取りはずし作業をしている場所から上り方面にむかい一本目の内軌外側の犬釘とチョックを抜き取つたところ、本田と高橋も継目板一ケ所(原二審以後は二ケ所と主張)の取りはずし作業をおわつたので、それで線路破壊作業をおわり、その結果、同夜午前三時九分ごろ、同所にさしかかつた青森発奥羽線廻り上り四一二号旅客列車の前部機関車と後続数車輛が脱線し、機関車は転覆し、これに乗つていた機関手三名が死亡した。

(五)  公判の経過

第一審公判廷で、原告らは、全員公訴事実を否認して争つたが、第一審裁判所は、(四)の検察官の主張事実を大体認め、園子以外の原告らを列車転覆致死罪の正犯として、園子をその幇助犯として、全員有罪の判決を宣告した。

そこで、原告らは全員控訴して、事件は、仙台高等裁判所に移された。同裁判所は審理の結果、(2)の八月一二日の電話連絡の事実は証拠上認められないとし、八月一三日の佐藤一と斎藤のアリバイを認め、八月一三日には、太田が、円谷玖雄の釈放要求のため福島市警察署に行く途中国労福島支部事務所に立ち寄つたとき、国鉄側のだれかが、列車転覆計画のあることを太田に打ち明け、東芝側の協力を求め、八月一五日に具体的に打ち合わせをするから東芝側からも出席してもらいたという伝言をたのんだ、という程度のことは認められるが、それ以上のことは認められないとし、(5)以前の「謀議」は、単なる話であつて、犯罪の謀議の程度には達しないものとして、これを謀議関係から排除した。したがつて、(5)以前の「謀議」にだけ参加したものとされていた武田、斎藤、岡田の三名は無罪とされ、二階堂武夫は(11)のアリバイ作りの行為についてだけ有罪と認められ、園子と同様幇助犯とされた。同裁判所は、そのほかは大体原審と同様の事実を認め、右以外の原告らの正犯として、有罪の判決を宣告した。無罪の判決を受けた武田、斎藤、岡田の三名については、検察官は、上告の申立をしなかつたので、右三名の無罪は確定した。

有罪の判決を受けた原告らは、全員上告を申し立て、事件は最高裁判所に移された。最高裁判所では、「諏訪メモ」の提出などのことがあり、審理の結果(7)の「八月一五日の国労福島支部事務所の連絡謀議」と(9)の「八月一六日の松川工場の連絡謀議」には、「二つともその存在に疑いがあつて、原判決中被告人らに関する部分は、結局、すべて、判決に影響があつてこれを破棄しなければ、著しく正義に反する重大な事実誤認を疑うに足りる顕著な事由があるといわなければならない。」として刑事訴訟法第四一一条三号、第四一三条本文を適用して、原判決を破棄し、事件を仙台高等裁判所に差し戻すという判決を言い渡した。

事件の差戻を受けた仙台高等裁判所は審理の結果、上告した原告ら全員について、犯罪の証明なしとして、無罪の判決を言い渡した。

検察官は右の判決に対し上告の申立をし、ふたたび最高裁判所で審理がおこなわれた結果、同裁判所は原判決を支持し昭和三八年九月一二日上告棄却の判決を言い渡し、全員の無罪が確定した。

第二節  問題点

第一時効の抗弁について

被告は、原告らの損害賠償請求権の大部分は消滅時効の完成によつてすでに消滅している、と主張する。しかし、そのように考えるべきではない。

捜査、公訴の提起、追行は、いずれも最終的には有罪判決を得るための行為であり、その目的を達するためにのみ許された行為である。そして、有罪判決獲得という目的によつて統一される捜査、公訴の提起、追行という一連の行為は、全体として一体をなすものとして扱うべきであり、刑事裁判が確定したときを以て、全体として一つの行為がおわつたときと考えるべきである。ということになれば、これにもとづく損害賠償請求権の消滅時効は、無罪判決確定のときから進行をはじめる。そうすると、本件では、右の損害賠償請求権が時効により消滅したということにはならない。したがつて、これについては、被告の主張は理由がない。

第二捜査、公訴提起、公訴追行の違法性、故意、過失の判断基準

一、はじめに

右に書いたとおり、本件で訴訟の対象になるのは、捜査、公訴の提起、追行が不法であつたかどうか、ということである。そこで、つぎに、捜査、公訴の提起、追行の不法とは具体的になにを意味するか、ということをあきらかにしておかなければならない。

二、違法性の判断基準―形式的適法要件

捜査、公訴の提起、追行の形式的適法要件は、刑事訴訟法に規定されているとおりであつて、捜査官、公訴官がこれにしたがつて捜査をおこない、公訴を提起し追行しているかぎり、すくなくとも形式的には、つねに適法である。本件ではこの意味での適法要件はほとんど問題にならない。

三、違法性の判断基準―実質的適法要件

(一) 捜査権、公訴権を行使すること自体についての適法要件

しかし、形式的適法要件をみたしている場合にも、捜査権、公訴権の行使が無制限にゆるされているわけではないことは言うまでもない。これらの権利を行使すること自体についても、行使するに際しての行使の仕方についても、捜査、公訴の提起、追行という制度そのものの持つ性質から当然出てくる制約がある。

まず、捜査権、公訴権を行使すること自体の実質的適法要件について見る。

先に書いたとおり、もともと、捜査、公訴の提起、追行は、最終的には、有罪判決の獲得を唯一の目的としておこなわれる行為である。したがつて、この目的を達することができないことがわかつている場合には、捜査したり、公訴を提起、追行したりすることは許されない。ことばを換えて言えば、捜査をおこない公訴を提起し、追行するためには、捜査官、公訴官の手持ちの証拠(通常の職務上の注意義務をつくせば、その段階で蒐集できたはずの証拠も含む)により、将来有罪判決を得る見込みがある、と判断されることが必要である。その見込みもないのに、捜査をおこない、公訴を提起し、追行することは、刑事訴訟の目的に反する違法な行為である。

それでは、将来有罪判決を得る見込みとはなにか。有罪判決は、裁判官で、犯罪事実は合理的な疑いのない程度に立証された、と判断したときにのみなされるものであるから、有罪判決を得る見込みとは、すなわち、裁判官が、犯罪事実は合理的な疑いのない程度に立証された、と判断する可能性である。

それでは、裁判官の判断はどのようにしておこなわれるか。

裁判官の事実認定は自由心証によつておこなわれる。したがつて、犯罪事実の存否につき同一の証拠によつておこなわれる判断であつても、いつでも一定しているとはかぎらず、裁判官によつてことなることもありうる。しかし、自由心証による事実認定と言つても、裁判官の恣意をゆるすものではなく、そこにはおのずから限界がある。裁判官のおこなう事実認定は、論理則と経験則にもとづく合理的な推論と矛盾するものであつてはならない。すなわち、裁判官の判断は規制を受けているのであり、その規則をおこなうのは論理則と経験則とである。裁判官が犯罪事実の認定にあたり直観的判断をおこなう必要もあることはもちろんであるが、その直観的判断は、経験則と論理則に反するものであつてはならず、そのわくの中でだけ働くべきものである。これが自由心証の限界である。

そうすると、捜査をおこない、公訴の提起、追行をすること自体の実質的適法要件とは、捜査官、公訴官の手持ち証拠(将来法廷に提出できる可能性のあるものにかぎる)および、将来の入手を合理的に期待できる証拠を資料として、「犯罪事実の存在は合理的な疑いを入れる余地がない」と判断することを、右にのべた自由心証の限界を逸脱することなく、すなわち、経験則と論理則に違反することなく、おこないうる、ということである。もし、それが経験則または論理則に違反するならば、有罪判決を得る見込みは法律上ないのであるから、その場合には捜査、公訴の提起、追行は、形式的には適法であつても実質的には、違法である。――なお、ここで捜査官、公訴官の手持ち証拠というのは、被疑者、被告人に有利であると不利であるとを問わず、捜査官、公訴官が現に集めていた証拠と、通常の職務上の注意義務をつくせば、その段階で集めることのできたはずの証拠の総体を指す(かりに、公訴官が、法廷に被告人に不利な証拠だけを提出して有罪判決を得たとしても、それは、右にのべた違法性の成否にはなんの関係もない)

有罪判決を得る可能性がある場合にも、それはあくまでも可能性であるにすぎず、かならずしも有罪判決にまで行き着くとはかぎらない。入手を期待されていた証拠が、あとになつて、存在しないもの、価値のないものであるとわかることもあれば、のちの段階になつて、まつたく思いがけない証拠(被疑者、被告人に有利な証拠)が出てくることもある。また、捜査官、公訴官の期待しているとおりの証拠が法廷に提出されても、自由心証主義の下では、それについての裁判官の判断がつねに一定であるとはかぎらない(すなわち、捜査官、公訴官が、どのように努力しても、裁判官の判断がどう出るかをはつきりとした形で予想できない場合もある。)。

したがつて、たとえ、結果的には有罪判決にまで行き着かなかつた場合でも、その段階でその可能性がありさえすれば捜査、公訴の提起、追行そのものは違法ではなかつたことになり、せいぜい刑事補償法が適用されるだけで、国家賠償の問題は起こらない。これに対して、右のような可能性もないのに、捜査、公訴の提起、追行がおこなわれた場合には、それは違法な行為であり、国家賠償の問題が生まれる。

なお、ここで、一言しておくべきことは、捜査、公訴の提起、追行を一体のものとしてとらえる場合、時間の経過の問題をどのように扱うべきか、ということである。

時間の経過とともに、証拠関係はどんどん変つていく。ある段階では将来有罪判決を得る可能性があると言えたのに、のちになつてそうは言えなくなることもあるし、場合によつてはその逆もありうる。こういう場合、どのように処理すべきであろうか。

当裁判所は、国家賠償の問題としては、こういう場合、すくなくとも、全体として一個の行為と見られる捜査、公訟の提起、追行の比較的初期の段階で違法となり、それがその後も続いた場合には、その違法が、事後的に、もともと違法でなかつた部分にも違法性を与え、結局、それを含めた全体が違法なものとなる、というようにして処理すべきだと考える。こういう場合、もともとは違法でなかつて行為も、結局のところ違法な行為のために利用されているのであるから、そのことにより違法性を帯びると言うことができるからである。

(二) 捜査権、公訴権の行使の仕方にいつての適法要件

捜査権、公訴権をどのように行使するかは、捜査官、公訴官の自由裁量にまかされている。しかし、自由裁量と言つても、そこには、その制度の目的から来る限界がある。つまり、捜査権、公訴権は、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ」「事案の真相を明らかに」(すなわち、法廷に真実を顕出するために(刑事訴訟法第一条)、公正かつ誠実に行使されなければならない。この目的からはずれて、不公正、不誠実な行使の仕方をすれば、それはやはり違法な行為である。なお、その具体的な内容は第九章第二節でくわしくのべる。

四、故意、過失

以上にのべたように、捜査、公訴の提起、追行が、有罪判決獲得の可能性なしにおこなわれたり、不公正、不誠実な仕方でおこなわれたりした場合には、それは違法なものとなる。

しかし、捜査、公訴の提起、追行が右にのべた意味で違法であるだけでは、それは、まだ、国家賠償の対象とはならない。それが国家賠償の対象となるためには、捜査官、公訴官が有罪判決を得る可能性のないことや、それが不公正、不誠実であることを知りながら、捜査をおこない、公訴を提起し追行したこと(故意)、または、捜査官、公訴官としての職務上の注意義務をつくせばこれを知ることができたのに、知らないで(たとえば、当然なすべき証拠の検討をおこたつたため)、捜査をおこない、公訴を提起し追行したこと(過失)が必要である。

ここで、誤解のないようにするため、違法性と捜査官、公訴官の過失との関係について一言しておく。

捜査、公訴の提起、追行が違法であつたかどうかということは、右にのべた法性判断の基準に照らして、(すなわち、将来有罪判決を得る可能性があつたかどうか、不公正、不誠実と言えるかどうか、によつて)客観的に決められるべきことであつて、すくなくとも理論上は判断者の立場による評価のちがいということがあつてはならない性質の問題である。

しかし、右のような意味で客観的には違法である場合でも(もつと具体的に言えば、国家賠償請求事件を審理する裁判所が違法と考える場合でも)、捜査官、公訴官もつねにそのように考えなければならなかつたということとなるわけではない。裁判官とはことなる立場に立ちつつ、人的、物的、時間的制約の下で職務を遂行しなければならない捜査官、公訴官に対し、あらゆる場合に、正しい(すなわち、具体的に言えば、国家賠償請求事件を審理する裁判所と同じ)判断をするように要求していたのでは、事実上、刑事訴訟制度そのものが成り立たなくなる。だから、捜査官、公訴官の判断が客観的にはまちがつている場合でも(すなわち、具体的に言えば、国家賠償請求事件を審理する裁判所の判断と食いちがつた場合でも)、そのまちがいがある範囲内にとどまつているかぎりは、それは、結局のところ法が予想し、是認しているところとして、許されなければならない。すなわち、国家による賠償(現行制度上、刑事補償と、区別された意味での賠償)は、捜査官、公訴官のまちがいがそのある範囲を越えたときにかぎり、おこなわれることになる。そして、その「ある範囲」の線をどこに引くかということは、最終的には、刑事訴訟の目的、捜査官、公訴官の役割と責任、一般社会常識などを考慮しつつ、決定されるべき問題である。

次章以下で考察するのは、世に松川事件と言われている本件列車転覆事件の捜査、公訴の提起、追行についての、右にのべてきたような意味での違法性、故意、過失の有無である。

五、犯罪事実の存否の判断と国家賠償請求権の存否の判定との関係

右にのべてきたところからあきらかなように、国家賠償請求訴訟の審理の対象は「将来有罪判決を得る可能性がある」とした捜査官、公訴官の判断の適否であつて、犯罪事実の存否そのものではない。しかし、実際上、国家賠償請求事件を審理する裁判所が犯罪事実の存否についておこなう判断は、請求が認められるかどうかの判定をおこなう上で非常に重要である。そのわけは、それが、国家賠償請求訴訟の審理の対象である「有罪判決獲得の可能性の有無についての捜査官、公訴官の判断の適否」の判定をおこなう上で決定的な重要性を持つており、また、それが、損害賠償請求権の存否の判定に直結しているからである。すこしくわしく言うとつぎのとおりである。

まず、犯罪事実の存否の判定と、「有罪判決の可能性の有無についの捜査官、公訴官の判断の適否」の判定との関係についてのべる。

「将来有罪判決を得る可能性がある」とした捜査官、公訴官の判断が合理的であつたかどうかということが、国家賠償請求事件の裁判所の審理であり、そのような判断が合理的と認められるかぎりは、たとえ、裁判所の判断によれば原告は無実であるという場合でも、裁判所は、原告の請求を棄却しなければならない。こういう意味では、犯罪事実の存否についての裁判所の判断は、捜査官、公訴官の判断の適否とは無関係であるということができる。

しかし、ここで忘れてならないことは、裁判所が、捜査官、公訴官の立場に立つて、将来の有罪判決の可能性の存否について判断しようと思えば、どのような資料がどのようにして集められていたかということを知らなければならない、ということである。この事実がわからない場合には、裁判所は、本来、原則として、捜査官、公訴官の判断の適否を判定できないはずなのである。

それでは、裁判所は、どのような証拠がどのようにして集められていたかということを、どのようにして認定するか。裁判所は、みずから必要な事実を認定する。これは、裁判所のおこなう事実認定一般について言えることであつて、捜査官、公訴官の判断の適否が問題になつている場合でもそのことに変りはない。

ところで、本件において最も重要な有罪証拠は自白である。したがつて、自白がどのようにしておこなわれたかということは、捜査官、公訴官の判断の合理性を判定する上できわめて重要である。したがつてまた、国家賠償請求事件を審理する裁判所は、捜査官、公訴官の判断の適否を判定しようと思えば、その前提として、自白がどのようにして得られたかということを知る必要があるのが原則である。

けれども、自白のなされたときの状況を直接に知つているのは、通常、自白者自身と、自白者の取り調べをおこなつた捜査官だけである。取り調べは、秘密におこなわれるのであるから、この二人以外の者は、どのような取り調べがおこなわれたかを直接知りようがない。したがつて、自白者があとになつて捜査官の強制誘導によつて虚偽の自白をしたと言い出し、捜査官がこれを否定すると、どうしても水かけ論になりやすい(刑事裁判の法廷ではしばしば見られることである)。この水かけ論を解決する方法は、双方の言い分をよく聞くと同時に、一応それからはなれて、自白以外の証拠および自白の内容それ自体を全体として見ることである。

そして、もしも、そのような考察によつて、客観的事実として、自白した原告が実は無実であつた(あるいは、真犯人であつた)ということがわかれば、この事実が、自白がどのようにして生まれたかということを判断するうえで、きわめて大きな役割を果すことはあきらかである。たとえば、かりに原告が無実であるとした場合、それにもかかわらずなぜ犯罪事実の自白がなされたかということの説明としては、原告の主張しているような無理な取り調べ(ことばを換えて言えば、無実であつても自白せざるをえないような形の取り調べ)がおこなわれたこと以外に考えにくい場合が多いことになるらかである。そして、そうなれば、こんどは、そのような形で得られた自白であるにもかかわらず、捜査官、公訴官はそれをなぜ信用したか、信用すべきではなかつた、ということになる可能性が大きいからである。この意味で、自白がどのようにして得られたかを判定する上での非常に重要な判断資料として、犯罪事実の存否が問題となるわけである。そして、すでにのべたとおり、国家賠償請求事件を審理する裁判所は、審理に必要な事項はみずから判断するのであるから、自白のできる経過をあきらかにするため、犯罪事実の存否についての判断が必要になつた場合には、それについて、みずからの判断をおこなうことができるし、また、しなければならないのである。

右には、自白と犯罪事実の存否との関係についてのべたが、これと同じことは、程度のちがいこそあれ、他の多くの証拠と犯罪事実の存否とのあいだの関係についても言えることである。

このように考えてくれば、国家賠償請求事件においても、犯罪事実の存否そのものの問題が、いかに重要であるかということがわかる。その判断の直接の対象は、原理的には、「有罪判決獲得の可能性あり」とした捜査官、公訴官の判断の適否であつて、犯罪事実の存否ではないけれども、捜査官、公訴官の判断の適否を判定する上でのきわめて重要な資料として、犯罪事実の存否についてもまた判断しなければならないのである。つまり犯罪事実の有無という事項も、他の事項と同様、右にのべた意味で必要のあるかぎり、国家賠償請求事件を審理する裁判所の判断の対象となるのである。

この場合、国家賠償請求事件を審理する民事裁判所の判断と刑事裁判所の判断とが食いちがうことがありはしないか、という問題が出てくる。しかし、民事裁判所が原告を無実であると判断しても、無罪を言い渡した刑事裁判所の判断と矛盾したことにならないのはもちろん、民事裁判所が、原告は真犯人であるという認定をしても、刑事裁判所の無罪判決と食いちがうことにはならない。刑事事件で確定されるのは合理的な疑いのない程度に犯罪事実を立証する証拠はない、ということだけであつて、民事事件において犯罪事実の存在を認定するために必要な証拠がない、ということまで確定されているわけではないからである。

つぎに、犯罪事実の存否と損害賠償請求権の存否との関連についてのべる。

真犯人であることがわかつている者に対して、真犯人でないことを前提にした損害の賠償を認めるわけにはいかない。ところが、本件で原告らの請求する損害の大部分は、原告らが無実であることを前提にしてはじめて認められる性質のものである。そして、他方、被告は、かならずしも明言はしないけれども、その主張全体を見れば、結局のところ、被告は原告らが真犯人であることを主張していると考えないわけにはいかない。そして、もし、被告のこのような主張が認められるならば(このような主張をしてもよいことはすでにのべたとおり)、かりに、捜査、公訴、提起、追行に、違法性、故意、過失があつても、無実であることを前提とする損害賠償の請求は棄却されるべきである。

主として右にのべた二つの理由により、本件国家賠償請求事件で犯罪事実の存否について判断することが、必要または有用となるのである。

六、予想される反対意見とそれに対する当裁判所の見解

以上の判断に対しては、なお、次のような反対意見があるかも知れないので、以下において、予想される反対意見を掲げて、これに対する当裁判所の見解を示しておく。

(一) 反対意見

捜査官・検察官は、通例、被疑事実の発生した時から間もない時期において、まだ他からの影響を受けない被疑者、参考人の供述等を基礎として、まず犯罪の成否を判断すべき地位にある。これに対し、裁判官は、通例、事実の発生から或る程度の時を隔てた時期において開かれる公判において現われる証言その他の証拠を基礎として犯罪の成否を判断せざるをえない。判断の時点に関するこの相違がすでに、捜査官・検察官と裁判官との間において、犯罪の成否につき判断の食違いを生ずる一つの原因となりうる。しかも、裁判官は、捜査段階における被疑者、参考人の供述、挙動等を直接知りうる立場にないのはもとより、現行刑事訴訟法の下では、これらの者の捜査段階における供述調書すらも、原則として、その心証の基礎とすることが許されない。これに対し、捜査官・検察官は、捜査段階における被疑者、参考人の供述を直接聴くことのできる地位にあり、検察官はこれらの供述等を基礎として公訴を提起すべきかどうかを決定せざるをえないのはもとより、公訴提起後公判に現われた証拠の価値を評価、判断するに当つても、捜査段階における被疑者、参考人の供述、挙動等からうけた印象がその心証形成に影響を及ぼすことのあるのは避けがたいところである。この点からも、公判に展開される個々の証言等の評価判断にとどまらず、ひいては、事案全体の評価判断についても、捜査官・検察官と裁判官との間で、判断の食い違いが生ずる場合がおこりうることは、やむをえないところである。そればかりではなく、捜査活動・検察活動も、裁判の作用も、同じく犯罪の成否に関する判断活動を含む点において、共通の側面を有するとはいえ、捜査活動・検察活動は、その本質においては、「犯罪を検挙し公訴を提起して有罪判決を獲得することにより社会秩序を維持する」という目的に奉仕する行政作用である。これに対し、裁判の作用は、かような行政目的とは一応無関連に、もつぱら、起訴事実が法律の定める犯罪構成要件に該当するかどうかを判定する、判断作用であることに、その本質がある。この本質の相違に応じて、捜査官・検察官と裁判官とは、その立場、責任を異にするものがあり、この点からも、両者の判断に微妙な食い違いを生ずることは避けがたいところである。以上のような諸事情から、同じく自由心証により同一証拠や同一事案を評価する場合においても両者の判断に食い違いを生ずる場合が起こりうるのはやむをえないところである。

従つて、犯罪の成否につき捜査官・検察官の判断と裁判官の判断とが食い違い、無罪の判決が確定した場合においても、その食い違いが上記諸事情より生ずるやむをえない結果と認められる場合には、これによつて個人の被つた損失の補償は、現行制度の下では、刑事補償の定める限度をもつて満足すべきものであり、国家賠償法の見地において、捜査官の捜査活動、検察官の公訴提起追行行為が違法(過失あるもの)とされるのは、犯罪の成否に関する捜査官・検察官の判断と裁判官の判断との食い違いが上記諸事情より生ずるやむをえない範囲を越えると認められる場合にかぎるものと解するのが相当である。それ故、国家賠償法の見地において捜査活動、公訴提起追行行為が違法かどうか(過失あるものとされるかどうか)を判断するについては、単純に捜査官・検察官の判断と裁判官(とくに刑事裁判の見地における裁判官)の判断との間に食い違いがあるかどうかということを基準とすべきものではなく、捜査官・検察官と裁判官との間で判断の食い違いを生ずる原因となりうる前記諸事情を考慮に入れても、なおかつ、捜査官・検察官の判断が明らかに非常識、不合理と認められるかどうか、換言すれば、捜査官・検察官の判断が、その立場、責任上要求される常識に照らし、明らかに非常識、不合理のものといいうるかどうかという基準によるべきものである。

もとより、検察官は、「有罪判決をうる見込があると合理的に判断される場合(そして、しかもその判断が自由心証の限界内のものと認められる場合)」にかぎつて適法に公訴を提起追行することが許されるものであることは、いうまでもないところである。しかし、同じく自由心証に基づく、その限界内の判断であつても、検察官の判断と裁判官の判断とは前記のような諸事情からやむをえないと認められる食い違いが生ずる場合がおこりうるのであるから、国家賠償法においては、「有罪判決をうる見込があると合理的に判断される場合(その判断が自由心証の限界内のものと認められる場合)」に当たるかどうかということ自体が、単純に、裁判官の自由心証による判断と検察官の判断とが食い違うかどうかということによつて判断さるべきものではなく、両者の判断にやむをえない食い違いを生ずる原因となりうる前記諸事情を十分考慮に入れて考察しても、なお検察官の判断が明らかに非常識、不合理であると認められるかどうかということを基準として判断さるべきものである。

さらに、いかなる証拠を基礎として、いかなる立証方法により公訴を提起追行すべきかということは、その立証方法により有罪判決を期待しうる場合であるかぎり、検察官の裁量に任さるべきであること、しかし検察官の裁量には限界があり、検察官の公訴権の行使は「法廷に真実を顕出するために、公正かつ誠実に」行使されるべきことも、もとより、当然のことである。従つて、たとえば、労使の間で行なわれた団体交渉につき記録が作成され、その記録が(それ自体でまたは他の証拠と相いまつて)被告人のアリバイを証明するのに役立つことが明らかであるにかかわらず、検察官がこれを押収しながら法廷に顕出しないというようなことがあれば、それは、不公正な訴訟追行の態度として違法視さるべきことはむろんである。しかしながら、右の記録をアリバイの証明に役立つ資料として法廷に顕出すべきかどうかは、その証拠の評価判断と密接不可分のものであつて、かりにこの点の評価判断について裁判所と検察官との間に見方の相違がある場合においても、検察官がこれを被告人のアリバイの証明に役立たないと評価、判断したことが一見非常識、不合理とされるような場合は格別であるが、検察官と裁判官との間に判断の食い違いを生ずる原因となりうる前記諸事情を考慮に入れて考察すれば、検察官の見方もまたいちがいに非常識、不合理といいえないような場合には、単に、この点について検察官の判断と裁判官の判断とが異なることだけを前提として、ただちに、検察官が右証拠を法廷に顕出しなかつたことをもつて不公正として非難することはできないものというべきである。しかも、「法廷に真実を顕出するために、公正かつ誠実に」訴訟を追行すべきことは、単に検察官のみに要求される責務であるわけではなく、本質的には、刑事被告人についても同様でなければならない。ただ、この点の訴訟追行の態度において、被告人の側にいささか欠けるものがあつたとしても、刑事裁判の見地においては、これを深くとがめることは、妥当でないであろう。しかしながら、原告らが国民の税金から賠償を受けるに値する完全な資格を有することを証明すべき責任を負担する当民事法廷の見地においては、原告らの側に、刑事訴訟において「法廷に真実を顕出するために公正かつ誠実に」訴訟を追行すべき責務の履行、努力につき欠くるものがあつたとすれば、かかる事情もまた、検察官の公訴追行の態度が不公正として非難さるべきかどうかの判断において、しんしやくすべき一つの要素と評価せざるをえない。従つて、たとえば、前記事例において、団体交渉の記録がとられていたことは列席者には知られていた事実であり、原告らの側においても記録をとつていたというような事情から、もし原告らの側においても、刑事事実審当時、適切な主張立証の活動を怠らなかつたとすれば、これらの記録を事実審の早い時期に法廷に顕出させてアリバイ関係をいつそう明確にする機会がありえたと認められるにかからず、原告らの側にもその点の努力において欠けるところがあつたとすれば、国家賠償法の見地においては、これらの記録が刑事法廷に顕出されなかつたことの責任が、一方的に検察官の側にあるものとして、その訴訟追行の態度を不公正として非難することはできないものというべきである。

(二) 反対意見に対する当裁判所の見解

イ、捜査権、公訴権を行使すること自体についての判断基準について

右の反対意見の言つていること、すなわち、結果的に、無罪判決が出た場合でも、かならずしも捜査官、公訴官の判断が非常識、不合理であつたことにはならないこと(すなわち、その場合は、刑事補償の問題が生まれるだけで国家賠償の問題にならないこと)、捜査官、公訴官の判断が非常識、不合理であつたかどうかの判断は、法秩序維持の行政目的を実現するというその責任を考慮し、その上で、なお非常識、不合理と認められるかどうかを基準にすべきことなどは、ことばはちがつても、大体本論に書いたとおりであつて、当裁判所は、これについてすこしの異論もない。まつたく賛成である。当裁判所も、第二章以下の判断はこの基準にしたがつておこなう。

ロ、捜査権、公訴権の行使の仕方についての判断基準について

反対意見の中には、公判段階での検察官の証拠の出し方の問題や、過失相殺の問題も含まれているが、これらについては、便宜上ここではのべず、第九章第二節でのべることにする。

第二章乃至第八章<省略>

第九章 責任原因についての結論(総まとめ)

第一節  捜査、公訴の提起、追行についての違法性と過失

第一序説

捜査、公訴提起、公訴追行は、最終判決にいたるまで、一体につながつた一連の行為と考えるべきである。もちろん、捜査の結果集められた証拠の全体から、将来、裁判官により、「被疑者が犯人であるということは、合理的な疑いがない」との判断がなされる可能性があるという判断に達したとき、起訴されるのであるから(第一章第二節)、起訴は、一応それまでの捜査のしめくくりとしての意味をもつのであるが、起訴後でも、右の判断をさらにたしかめるための捜査、または起訴後に生じた疑問点を解明するための捜査(補充捜査といわれているもの)はおこなわれるのであり、もし、そのような捜査の結果、公訴事実と根本的に矛盾する証拠が出てきて、どうしてもその矛盾を解決することができず、起訴したときの判断を合理的、常識的に維持することができなくなれば公訴を取り消さなければならないのである。それは、起訴前の捜査の段階でもおなじことで、被疑事実と根本的に矛盾する証拠が出てきて、どうしてもその矛盾を解決することができず、被疑事実を合理的、常識的に維持できなくなれば、勾留中の被疑者は嫌疑なしとして釈放しなければならない。

捜査官または公訴を担当する検察官が右にのべた、被疑事実または公訴事実と根本的に矛盾する証拠の評価をあやまつて、勾留を続け、公訴を提起、追行した場合に、その判断のあやまりが、第一章でのべた自由心証の限界を超える程度に不合理かつ非常識なものである(すなわち論理則と経験則に反する)場合には、その捜査、起訴、公訴追行は実質的に違法であり、またすくなくとも過失あるものである。

つぎに、捜査官が捜査をおこなうについて、それまでに集められた捜査資料から推測される一定の想定(あるいは見込みまたは、もつとかたまらないかたちでは疑い)をもつて捜査を進めるのは、あたりまえのことであつて、そのこと自体はすこしも非難すべきことではない。なんの見こみもなく、むやみに捜査の手をひろげても成果はあげられない。いわゆる「見こみ捜査の危険」というのは、たしからしい根拠もないのに、早急に一つの見こみを立て、それだけを確信して、その方向にだけ捜査を進め、真実を見失う危険をいうのである。一般捜査によつて集められた捜査資料から、合理的、常識的に考えて、可能性の高いと思われる一または数個の想定を立て、それが正しいかどうかをたしかめるための捜査を進めることは、むしろ、真実発見のために欠くことのできない一つの方法である(それは、経験科学の研究上、一定の仮説を立て、それを観察実験によつてたしかめるのとおなじことである)。

ただ、右にのべた意味での捜査官の想定と矛盾する証拠(たとえばアリバイの証拠)が出てきた場合には、捜査官は、これを、合理的にかつ公平に検討しなければならない。もちろん証拠が犯人の側の擬装工作によつてつくりだされる可能性もあり、また関係者の錯覚による供述という可能性もある。捜査官が、つねにこれらのことを警戒し、疑い深くなるのは当然である。むしろ、十分に疑つて見るべきである。擬装された証拠か、真実の証拠かを見わけるのはむずかしい場合も多いであろう。また、擬装工作を具体的に立証することは、なおさらむずかしく不可能に近い場合もあるだろう。しかし捜査官は、すくなくとも、そのような証拠が擬装工作によつてつくりだされる可能性(もちろん単なる抽象的な可能性でなく、社会生活の実際から見て考えられる具体的可能性)があるかどうか、錯覚による供述という可能性があるかどうかを、その具体的な場合の状況にそくして、証拠の全体から、検討しなければならない。――証拠の性質上、そのような可能性が考えられない場合もある(たとえば被疑者と敵対する立場にあり、これに好感を持つていない参考人が、被疑者のアリバイをはつきり具体的にのべている場合に、たしかな根拠もなくこれをアリバイ擬装工作によつてつくりだされた供述と考えることはむずかしい)。

捜査官の想定と根本的に矛盾する証拠が出て来て、しかもこれについて擬装工作や錯覚の可能性も考えられない場合には、捜査官は、その想定そのものを検討しなおすべきであつて、その結果どうしてもその矛盾が解決できず、合理的かつ常識的に見てその想定を維持できなくなつたときは、その想定はまちがつていたのであるから、捜査官は、これを棄てなければならない。捜査官が自分の立てた想定の正しさを確信するあまり、右にのべたような意味でこれと矛盾する証拠が出てきても、これを正当に評価しないで理由なく無視し、そのために事件全体についての判断をあやまり、公訴を担当する検察官もこれとおなじ判断で公訴を提起し、追行し、しかもその判断のあやまりが、第一章でのべた自由心証の限界をはずれているときは、その捜査、公訴の提起、追行は、全体として、違法で、かつ過失ある行為となる。

原告らに対する刑事事件の捜査の出発点は赤間自白である。本判決理由第七章では、その赤間自白がどのようにして生まれ、それがいかに虚偽架空であるかを論証した。そして、赤間が自白したのちは捜査官は、第七章でのべたように赤間自白そのものの内容に多くの救いがたい不合理、不自然な点があつたにかかわらず、これを無視し、赤間自白は、大すじでは正しいと信じ、その想定をもつて、赤間自白でのべられている共犯者関係と、その背後関係としての謀議関係を追求し、その追求の過程で、東芝関係の被疑者らの年少者(浜崎、大内、菊地、小林)、意志薄弱者(太田――のちに拘禁性精神異常にかかつた)および女性(園子)に心理的圧力を加え、右の捜査官の想定にそう自白をさせたのである。

右の心理的圧力というのは、もつと具体的に言えば、捜査官の考えるとおりの「ほんとうのこと」を自白すれば、これらの人たちは、手先(浜崎)、またははしり使い(太田)の程度のことをしたのにすぎないのだから、寛大な処分を受けて、間もなく釈放されるが、否認をつづけていれば、情状酌量の余地はなくなり死刑、無期などの厳刑に処せられ、殺されるか、一生刑務所から出られなくなつてしまう、だから助かりたいと思うならば「ほんとうのこと」(つまり捜査官が正しいと信じているその想定に合致すること)を言え、「証拠がそろつているのだから」あるいは「ほかの共犯者が言つているのだから」お前だけが否認してもだめだ、否認していれば、お前のいのちは助からない、というような趣旨のことを、いろいろな角度から、手をかえ、品をかえ、ある場合にはきびしく、その恐怖心をあおるように言い、ある場合にはやさしく、その情にうつたえるように言つて、しつように、くりかえすことである。これに対して、いかなる恐怖にもまけないで真実をまもりとおそうとする無実の人または、どんなことがあつても認めまいとかたく決意しているずぶとい真犯人は、右のような心理的圧力にまけないで、否認を押しとおすことができるかもしれない。しかし普通の人にとつては、死刑や無期懲役の恐怖は、あまりにも強い。普通の人(とくに年少者など、世間のこと、とりわけ裁判制度のことなどをよく知らない、意志と理性の弱い人)は、拘禁状態のもとで、捜査官からこのようなことをくりかえし強く言われれば、捜査官が言うとおりに(つまり捜査官の気にいるように)言わなければ助からない、どんなことでも捜査官の気にいるように言つて、いのちだけは助かりたいという迎合的な気持になり、捜査官の示唆する想定に調子を合わせた自白をする可能性は、つねに考えられることである(それは、被疑者が無実であつても真犯人であつても、おなじように考えられることである)――目の前にいる捜査官の気にいるようなふるまいをして、そのごきげんをとりむすび寛大な処分を受けるほかに、自分にとつて助かる道はないと考えたがる、弱い人間心理(とくに勾留されていれば、普通の意志と理性をうしないやすい)がはたらきがちであることをつねに考えなければならない。

被疑者に対して自白の勧告、説得をするのは、捜査官として当然のことであり、その場合、多少は、強いことばが出てくるのは、やむをえないこともあるかもしない。しかし、どのような場合でも、被疑者の年令、性格、精神状態などを十分考慮しなければならないと同時に、その自白内容が客観的事実に合致するかどうかをたしかめなければならない。あきらかな思いちがいを訂正させるような場合はべつとして、捜査官の想定や知識に合致するように、被疑者を無理に誘導して言わせることは避けなければならない。そのようなことをすれば、捜査官の誘導と被疑者の迎合の合作による虚偽架空の作文ができあがるおそれがある。

太田自白、赤間自白などが、右のようにして、捜査官の誘導と被疑者の迎合により作りあげられた自白であることは、第二章以来論証したとおりである。したがつて自白内容が詳細、具体的であるとか、共犯者の自白内容がたがいに符合するとかということは、すこしもその真実性を保証することにはならない。たとえば、浜崎自白は「赤間自白は大すじでは正しい」という想定を持つていた捜査官が、その想定をもつて浜崎を誘導して言わせた供述なのであるから、その内容が大体赤間自白と符合するのは当然なのであつて、その符合それ自体はすこしも、その真実性の証明にはならない。「浜崎の自白が赤間自白を裏づける」というような見解はあやまつている。それどころか、第三章第一節で論証したとおり、赤間自白中の八月一五日謀議の関係部分と第一次太田自白中の関係部分の内容の「符合」そのものが、その明白な虚偽とあいまつて、第一次太田自白中の右関係部分が、赤間自白を原本とする捜査官の誘導の産物にほかならないことを、はつきり証明する結果となつているのである。

本刑事事件の自白は、赤間自白を出発点として、「これが大すじでは正しい」という捜査官の想定およびその後の捜査によりこれにつけ加えられた捜査官の知見にもとづく誘導とこれに対する前記の自白組の被疑者の迎合とが合体することにより、発展し、分岐していつたものである(その本流は実行行為についての赤間自白と謀議関係の太田自白である)。そして、その過程で、右の想定と根本的に矛盾しこれをくつがえす数多くの証拠(第六章の本田アリバイおよび第二章の佐藤一アリバイの関係証拠は、そのもつとも明白かつ致命的なものである)が出てきたにかかわらず、捜査官は、「赤間自白は大すじでは正しい」という想定を棄てないで、その線にそつて捜査を進め、公訴官は、この虚偽架空の自白を証拠とし、これと矛盾するいつさいの証拠を無視し、公訴を提起し、追行した(しかも公訴事実と矛盾する手持ち証拠は差戻前の第一、二審ではいつさいの法廷に顕出せず、これに合致する外形を持つ自白とその関係証拠だけを提出した――第二節)。以下、この経過の大すじをはじめから(したがつて第二章以下の論証とは大体逆の順序で)たどつて、総体的にながめてみると、本件で問題とされている刑事事件の捜査、公訴提起、追行が、一体として、いかにはなはだしく違法で、かつすくなくとも過失あるものだつたかがはつきりわかるのである。

第二、赤間自白はどのようにして生まれどのようにして挫折したか

一、赤間自白はどのようにして生まれたか

まずはじめに、赤間自白がどのようにして生まれ、どのように変化していつたかの大略を、主として赤間の自白調書の記載そのものの変化をたどりながら、見ていくことにする。

捜査官が赤間を疑い、赤間を追及する直接の出発点となつたのは、いわゆる「赤間予言」についての安藤供述である(第七章第三節第四、第四節第二参照)。

捜査官が、どのような根拠と推測によつて「赤間予言」に関心を向けたか、ということについては、もちろん、確定的な証拠はない。しかし、とにかく、武田巡査部長は、九月六日に安藤に尋ねたときには、「赤間が八月一六日夜に脱線についてなにか言わなかつたか」という点に関心を持ち、その点に的を置いた取り調べをしたことはまちがいない(第七章第四節第二参照)。そして、その際、武田巡査部長は、そのようなことを言わない安藤に対して心理的圧力を加え、同人に、「赤間が脱線について話したのは八月一六日夜であつた」という供述をさせ、そのような調書を作成した。これが安藤9.6武田調書(甲49P144)である。――武田巡査部長が、なぜ赤間に的を置いて安藤に尋ねたかということについて、ある程度まで推測することもできないではない。赤間は、国鉄被整理者で国鉄労組員であり、整理されるまでは線路工夫であつた。また、その兄は共産党員であり、赤間自身も捜査当局によつて共産党員と見られていたふしもある。右に書いたことは、そのころ捜査官が捜査の重点を置いていた、共産党、国鉄労組関係者、国鉄被整理者、線路工事の「くろうと」、という条件によく合つている。しかも、赤間は、その夜、虚空蔵様の祭で「おこもり(境内で夜明しすること)」する者もめずらしくないときであつたにもかかわらず、いつも一緒に遊んでいる仲間の安藤、飯島のさそいを振り切り、「おばあちやんにしかられる」と言つて虚空蔵様をはなれた(このこと自体はまちがいのない事実である)、という事実があつた。当時の武田巡査部長が赤間を一応疑つてみることは、かならずしも無理からぬところであつたと言うことができる(なお、この点については第七章第三節第四参照のこと)。

安藤から右のような供述を得た武田巡査部長は、ついで、九月九日に、安藤供述の中で安藤とともに赤間の脱線についての発言を聞いたとされている飯島を取り調べ、安藤に対したときと同じように心理的圧力を加え、やはり、「赤間が脱線について話したのは八月一六日夜であつた」という趣旨の供述調書を作成した。これが飯島9.9武田調書(甲49P140)である。

武田巡査部長は、このようにして、そうは言わない安藤、飯島から、無理やり「赤間が脱線について話したのは八月一六日夜であつた」という趣旨の供述を得た。しかし、二人は、もともと記憶にない事実を言わされてしまつたので、二人の供述には、二人が「赤間が脱線について話したのは八月一六日夜であつた」と記憶している、という事実と両立しない事実(その典型は、赤間の発言が「脱線があつた」という過去形となつていること)がはいり込んでしまい、二人の供述は、全体としては、不自然、不合理なものとなつてしまつた(第七章第四節第二参照)。

捜査官は、安藤、飯島からこのような供述を得たのち、九月一〇日に、赤間を安藤、飯島とともに呼び出し、「お前は、なぜ、八月一六日夜に脱線の話をしたのか」と追及した。それに対し、赤間は、「自分は八月一六日夜にはそんな話はしない。脱線の話をしたのは一七日になつてからである」との趣旨のことを言つて弁解した。そこで、武田巡査部長は、赤間を、赤間とともに呼び出してあつた安藤、飯島と対質させることにした。対質のとき、すでに、捜査官の心理的圧力を受けていた安藤、飯島は、「赤間が脱線について話したのが一六日夜であることはまちがいない」と言つた。自分の眼の前で二人にこのように言われた赤間は、武田巡査部長から、「言つたなら言つたとさつさと認めて、早く帰してもらうようにしたらどうだ」などと言われたこともあつて、「あるいは、一六日夜にそういうことを言つたかもしれない」と、「予言」の事実を認めるようなことを言つてしまつた。

赤間がこのようにして「予言」の事実を認めてしまうと、捜査官は、今度は、「脱線についてだれに聞いたのだ。どうして知つたのだ」という形での追及を始めた。「予言」など、おこなつていない赤間としては、そのようなことを聞かれても答えようもなく、しかたなく、いいかげんなことを答えた。しかし、それがいいかげんなことであることはすぐわかつてしまい、ますますはげしく追及されることになつてしまつた。そして、ついには、「だれに聞いたか言えないのはお前自身でやつているからであろう」という形の取り調べになつてしまつた。――赤間を疑つていた捜査官の眼には、赤間が、一応、予言の事実は認めながら、その予言の資料をどこから得たかということについていいかげんなことしか言わないことが、その疑いをますます強くするものと見えたのであろうと思われる。

はじめのうち、武田巡査部長が中心となつておこなつていた赤間の取り調べは、途中から、玉川警視が中心となつておこなうようになつた。玉川警視は、事件発生の直後から、「この事件は、共産党がやつたものであり、国鉄労組と東芝松川労組とが共謀してひき起こしたものである」という想定を持つていたが、捜査の進展とともに入手される資料により、赤間の取り調べを始めるころには、「国鉄側で実行行為者となつた見込みの大きいのは本田と高橋であり、これに、赤間が手先として加わつたのではないか」という想定を持つようになつていた(第七章第四節第七の二と三参照)。そこで、その想定にもとづき、赤間に対し、「この事件は、共産党、国鉄労組がひき起こした事件だ。お前は手先に使われたすぎにない。しかし、共産党、国鉄労組の連中(とりわけ、本田)は、自分でやつていながら、赤間一人がやつたと言つて、罪を全部お前に押しつけようとしている。お前が正直に言えば、お前は手先に使われただけのことだから、簡単に出してもらえるが、お前がいつまでも嘘を言つていると、連中の言つていることだけが通つて、お前はたいへんなことになるぞ」という趣旨のことを告げ、赤間に対し、共産党、国鉄労組の者(その中でも特に本田)に対する憎悪の念を植えつけた。当時の赤間としては、玉川警視が嘘を言つているなどということは知るべくもなく、その言うことを信じて、共産党、国鉄労組の者(とりわけ、本田)をうらみ憎んだのである(第七章第三節第六、第七、第四節第七の二参照)。

捜査官は、右のほかにも、「自白しないと強姦の実演をやらせるぞ」とか、「自白しなければ死刑になるようにしてやる。自白したらよい就職口を世話してやる」とかなどいろいろ言つて、赤間に自白させようとこころみた(第七章第三節第八参照)。

しかし、赤間は、右のような取り調べだけではまだ自白しなかつた。共産党や国鉄労組の者達をはげしく憎み、うらみながらも、自分は脱線などをやつていない、ということを強調した。そうすると捜査官の追及は、今度は、「それでは、お前が犯人でないことはだれが知つているか」という形になつた(第七章第三節第四参照)。このとき、赤間が、自分の無実を一番よく知つているものとして主張したのが、赤間の祖母、ミナであつた。すなわち、赤間は、

「八月一六日夜私が帰つてすこしあと、祖母が、泊まりに来ていた親類の子供を便所に起こした。そして、私は、便所から帰つて寝ようとしている悦子(三人の子供のうちの一人)の髪の毛をいたずらに引つ張つた。だから、私が脱線をやつていないことは、そのことを調べてもらえばわかる」ということを主張したのである。ところが、捜査官は、「ミナは、お前の言うようなことは言つていない。いつ帰つたかわからないと言つている」(あるいは、二時「ごろにも四時ごろにも帰つていなかつた、と言つている」)と赤間に告げ、赤間を、「これではどうしようもない、嘘の自白をしなければたいへんなことになる」という絶望感におとしいれた(第七章第三節第五参照)。

しかし、実際には、ミナは、けつして赤間にとつて不利なことを言つているのではなかつた。ミナは、赤間の帰つたときと自分が子供を便所に起こしたときとの前後関係について赤間の主張とちがうことを言つていたが、「勝美はその夜一二時ごろと一時ごろのあいだに帰つてきたと記憶する」という趣旨のことを言つていたのである。すなわち、捜査官は、ミナの言うことのうち、赤間にとつて有利なことは全然告げず、その中の赤間にとつて、不利な事実だけを告げ(あるいは、これにミナの言わないことをも付け加えて、赤間にとつてもつと不利なことを言つたのかもしれない)、全体としては、ミナの供述全体の趣旨とちがつた事実を言つてきかせたのである(第七章第三節第五参照)。

このようにして、赤間は自白を始めた。右にのべた、赤間が自白を始めるまでのいきさつを見ると、「このような取り調べがおこなわれたならば、当時の赤間としては、どうしても自白をせざるをえなかつたであろう」ということがわかる。それは、赤間が真犯人であろうがなかろうが、同じように言えることである。赤間の取り調べの資料となつたものは、ほとんどすべて、架空の事実である。安藤、飯島が、「赤間が脱線について話したのは一六日夜である」と言つているということ(実際には捜査官が言わせたのであつて、二人は、もともとそんなことは言つていなかつた)、共産党、国鉄労組関係者(その中でも特に本田)が赤間一人に罪を押しつけようとしているということ(だれもそんなことはしていなかつた)、ミナは赤間の言うこととちがうことを言つているということ(ミナは、全体としては、赤間の弁解を裏づけることを言つていた)、以上の三つが、赤間追及の三本柱とでも言うべきものであるが、それらは、すべて、架空の事実であつたのである。ところが、捜査官が赤間に対し、それらがまるでまちがいのない事実であるかのように思い込ませたため、赤間は、右の三つの事実を前提にし、その前提に立つて、自分の行為の選択をおこなわなければならなくなつたのである。――当時の赤間に対し、「右のような事実が捜査官の嘘であることにどうして気づかなかつたのか。当然気づくべきであつた」と言つて、非難したり、要求したりすることはできないであろう。

右のような立場に追い込まれた赤間に残された道は、死刑、無期を恐れず、あくまで否認を続けるか、玉川警視の言うことを聞き、嘘の自白をして軽い刑ですませてもらうか、の二つのうちのどちらかである。赤間に対し、「たとえ、そのような事実を前提にされても、ほんとうに無実であるならあくまで無実を主張すべきである」と要求することは、無理なことであろう。当時の赤間としては、むしろ、自白するということ以外の方法でその状況を逃れることは不可能であつた言つてよい。

このようにして、赤間は、自分が真犯人の一人であるという虚偽の事実を認めてしまつた。こういう場合、赤間はなにを考え、なにをおこなうか。こういう場合に赤間の考えることは、まず第一に、自分の刑をなるべく軽くしてもらうこと、つぎに、自分をこんなひどい状態におとしいれた共産党、国鉄労組の連中(その中でも特に本田)に復讐することであろう。赤間が、自白開始後ふたたび否認を始めるまでにおこなつたことのほとんど全部は、右の二つの要素のうちの一つまたは両方から成り立つていると言うことができる。

自白開始後の赤間が、捜査官、裁判官、その他の者に対して、いかにも真犯人らしくふるまつていた、ということはまちがいのない事実である。自白内容となつている事実についても、実感のこもつた供述をしたり、捜査官の言わないことを自分から進んで言つたりしている。けれども、こういうことは、赤間自白が真実であることをうかがわせる資料となるものではないのである。赤間のこのような態度は、赤間が真犯人である場合にも生ずるが、赤間が真犯人でなくとも生まれるものであるからである。そして、赤間は、真犯人でなくても自白しないではいられないような取り調べにより自白を始めたのであるから、赤間が自白を始め、その後右のような態度を続けたからといつて、そのことをもつて赤間自白の真実性を支える資料とすることはできないのである。被告の主張の中には、赤間が実感のこもつた供述をしたことや、捜査官から言われもしないことを進んでもつともらしく言つたことなどが、赤間自白の真実性を高める資料であるかのように言つている部分があるが、それはまつたくのまちがいなのである。赤間としては、自分をいかにも真犯人らしく見せて捜査官らに気に入つてもらい、刑を軽くしてもらわなければならないのであるから、実感のこもつた言い方をしたり、捜査官の言わないことを自分の方から進んで言つたりして、もつともらしくふるまうのはあたりまえなのである。だから問題は、「赤間がそのようにして言つたことが、赤間が真犯人でなければ言えないことであつたかどうか」ということなのであり、そのようにして言つたということ自体は、たいして重要なことではないのである(第七章第四節第三参照)。

とにかく、赤間は、このようにして自白を始め、具体的な事実をのべた。それを録取した最初の自白調書が9.19玉川調書(甲48P127)である。その成立のいきさつが右のようなものであつたため、自白内容となつている事実の中には、捜査官の示唆、誘導、暗示にもとづくものもあれば、赤間の方でみずから考え出して言つたこともある。

二、赤間のその後の供述変更とその不合理性

しかし、赤間はもともと真犯人ではない。また、捜査官の想定のもとになつた資料も完全なものばかりではない。資料は正しく集まつていてもそれにもとづく捜査官の想定そのものが最初からまちがつていることもありうる。また、さらに赤間が捜査官に調子を合わせると言つても、はじめから完全に調子を合わせられると決まつたものでもない。だから、客観的に見てどう考えても不合理である、というものも、あきらかに事実に反することも、その中には含まれている。また捜査官の想定に合わないこともはいつている。さらに、9.19玉川調書作成当時の捜査官の想定には合つているが、その後の時期の想定(想定の変化は、新しい資料が入手されたり、資料の検討がおこなわれたりすることにより新しい事実に気づいたときに起こる)とは成立しないものも含まれている。第七章第二節で取り上げたのは、その中のおもなものである。

捜査官は、赤間の自白の内容が不合理であることや、他の証拠と合わないことに気づいたときはどうするか。赤間自白の真実性についてのそれまでの考えをすててしまうか、赤間の供述内容の不合理を解消し、それと他の証拠との矛盾を消滅させてその信用性を維持しようとするかの、いずれかであろう。実際には、9.19玉川調書でのべられている真実の中には、他の証拠と照らし合わせてみるときは、赤間が真犯人であることと両立しないこと、または、両立しにくいことが数多く含まれていた。そして、捜査官は、それらの問題の大部分にはつぎつぎと気づいていつた。しかし、捜査官は、最初に持つた「赤間自白は大すじにおいて真実である」という立場(もともと、この、はじめに持つた立場そのものに、根拠となるようなものはなかつたのである)をすてなかつたから、できるかぎり、赤間自白の内容の不合理を取り除き、それと他の証拠とのあいだの矛盾を解消して、自白全体の信用性を維持しようとした。その場合、その一つの方法は、赤間自白の方を変更させるという方法であり、他の一つの方法は、赤間自白と矛盾する証拠の方から赤間自白の不合理を取り除こうとするという方法である。

最初の自白調書である9.19玉川調書から、その最終のものである11.10田島調書までのあいだには、いくつかの重要な点で、変更、あるいは、新しい事項の登場が見られるが、これらは、すべて、前者の例である(第七章参照)。本田アリバイのところで見た木村の供述変更(第六章第三節第五参照)や、太田自白の中に見られる虚偽の事実(八月一五日連絡謀議への太田と佐藤一の登場、第三章第一節第二、第三参照)などは後者の例である。これらのうち、おもなものについては、すでに各所で具体的にくわしく書いたので、ここではくわしいことはくり返さないが、ここで、その要点だけを掲げておくとつぎのとおりである(なお、赤間自白から謀議関係の自白への発展とその挫折のいきさつについての概観は第三でおこなう)。

9.19玉川調書のつぎに作成された調書は、9.20玉川調書(甲48P137)である。この調書は、「私は昨日列車顛覆事件をやる迄の経過のあらましを申し上げた筈でありますが未だ言ひ足りない事がありますので思ひついた事を言ひ度いと思ひます」という書き出しで始まる調書であり、そこに記載してある事項は、大体のところ、9.19玉川調書の補充と言つてよい範囲のことがらである。けれども、その中には、9.19玉川調書の補充訂正というようなことでは説明できないものも含まれている。

すなわち、9.19玉川調書には、松川から来た二人の者が東芝の者であることをうかがわせることは全然あらわれていないで、むしろ、「其の中の一人は元機関区に出て居る管野とか丹野とかと本田さんに聞えておりました」と記載されていたのに、9.20玉川調書では、「松川の方から来た二名は本田さんに聞えた様な気がしますが全く忘れて終へました」と言い、また、「バール、スパナ丈けを松川の者が持つて来ましたがあのスパナは鉄道に経験のないものが取つたと考えております。此の道具のことは組合で八月十五日相談した折現場に近い保線班から持つて行くことにする等と誰れか言ふておりましたので私は松川の線路班から持つて来たのだと思ひます。……松川では国鉄労組と取引の数の多いのは芝浦だからスパナの盗つた素人さから見てどうもおかしい感じを持つております」と言うようになつた。これは、赤間の方から言い出したことではなく、玉川警視が、自分の想定に合うように言わせたことである。つまり、赤間の供述調書という形となつてあらわれた玉川警視自身の考えそのものであつたのである(第七章第四節第七の四の(四)、(五)参照)。

つぎの調書は9.21玉川調書(甲48P140)である。

この調書は、それまでの赤間自白の内容を検討し、その裏づけ捜査をしてみた結果、それまでの自白内容の中に含まれている不合理さや不十分な点がわかり、それについて赤間に示唆、誘導を加えて供述を変えさせ、新しい事実を登場させた調書である。この調書の中に出てくるのはつぎのような点である。

イ、出発集合地点とそれに続く往路の一部の変更(第七章第二節第五参照)

この変更は、捜査官が、9.19玉川調書の記載にもとづき、捜査し、検討した結果、最初に集合地点とされていたところに集まり、そこから、最初に言われていた道を通つて現場に向つた、ということになると、その夜のその付近の状況から考えて、赤間自白に大きなきずがつくことに気づき、赤間に対して示唆、誘導を加えて変更させたものである。

しかし、このようにして赤間自白の内容そのものを不合理でないものに変更させたところで、9.19玉川調書作成時に赤間がそのような不合理な事実をのべていた、という事実そのものを否定することはできない。そして、そのとき赤間がのべたことは、赤間が真犯人であり、真に本田、高橋とともに待ち合わせて現場に向つたのであるならば、まちがえて言うことがあるとはほとんど考えられない事実であつたのである(ここで問題にしているのは、真犯人が集合地点をまちがえてのべることがあるか、とか、捜査官がまちがえて記載することがあるか、というような一般論ではない。9.19玉川調書の中で現実におこなわれている記載そのものが、まちがいによつてできたものと言えるかどうか、という、具体的な問題である。一般論に逃げ込んで問題をあいまいにすることは許されない)。だから、赤間自白の内容を変更させたところで、問題は、すこしも解決されたことにはならないのである。

しかし、捜査官は、供述を変更させるだけのことしかせず、この問題について、それ以上の究明をしなかつた。そして、公判段階になつてからは、警察官は、この点について供述変更はなかつた、という、事実に反することのあきらかな証言をおこない、検察官もこれを訂正せず、その結果、裁判所に、供述変更はなかつたというまちがつた事実を認定させ、このまちがいは、差戻後二審になつて9.19玉川調書が提出されるまで訂正されなかつたのである。

ロ、森永橋たもとでの休憩、およびそこでの肥料汲みとの遭遇の事実の登場(第七章第四節第五参照)

9.19玉川調書、9.20玉川調書には帰りに森永橋を通つたことは出てくるがりそこで休んだことや、そのとき肥料汲みに出遭つたことなどはのべられていなかつた。しかし、捜査官が調べてみると、その朝森永橋たもとでだれかが休んでおり、それを見たものがいるらしいということがわかつた。そこで、玉川警視が赤間に対し、「森永橋たもとで休んだろう。そのときなにか通つたろう」と示唆し、赤間がそれに調子を合わせ、「休んだ。肥料汲みが通つた」と答えた。赤間は、その時刻に肥料汲みが通ることを知つていたから、このように言つたのである。

そして、捜査官は、翌二二日、赤間自白の裏づけを得るべく捜査をおこない、農夫高橋鶴治から、ほぼ赤間自白の内容に符合する供述を得た。これが高橋鶴治9.22遠藤調書(甲49P255)である。

しかし、実のところ、鶴治は、もともと、右のような事実を記憶していたわけではなかつた。鶴治は、肥料汲みに行つたのがいつであつたかということも、そのとき人を見たかどうかということも、見たとしてもそれが赤間らに当る人間であつたかどうかということも、ほとんどなにも記憶していなかつたのである。右の調書に記載されていることは、捜査官の意識的、無意識的な暗示と誘導によつて作られた、まちがつた記憶である。

ハ、帰路の一部の変更(第七章第二節第四参照)

9.19玉川調書では、「墜道の上の道に出て鉄道線路に沿つた平田村地内の道路を経て」帰つた、と言つていたのに、9.21玉川調書では、「現場よりの帰りには金谷川の墜道の上の山より行く時通つた道を下り線路を経て割山を過ぎた地点から東におりて」帰つた、ということになつた。すなわち、道を通つて帰つた部分の一部が、線路を通つて帰つたことになつた。これは、はじめの自白内容にもとづいて現場往復をした武田巡査部長が、実際にはある道をみつけ損い、ないものと誤解した、ということによつておこなわれた変更である。すなわち、武田巡査部長が、「お前の言う道はない。だから、ほんとうは、線路を通つたのだろう」と言い、赤間が、それに調子を合わせる、ということによつてでき上つた供述変更である。

ニ、松川から来た二人の特徴の供述の変更(第七章第四節第七の四の(七)以下参照)

9.19玉川調書でのべられていた二人の特徴は、東芝労組員を写した写真中に見られる浜崎と佐藤一の特徴二合つていなかつた。しかし、玉川警視は、松川から来た二人に浜崎と佐藤一である、という想定を持つていたので、写真中の二人に合うように供述を変更させ、赤間が、「似ているがよくわからない」と言うのにもかかわらず、「只今見せられました写真の中で前列の右から二番目の者がバールを持つて来た方だと思ひます。右から四番目の方がスパナを持つて来た方だと思ひます」という記載をおこなつた。

9.21玉川調書の作成により、赤間自白の内容は、一応、かたまつたと言える状態に達した。それで、9.23山本調書(甲13P25)、9.25唐松調書(甲13P17)の内容は、大体において、9.21玉川調書までの自白内容と同じである。

しかし、赤間自白は、もともと、虚偽架空の単なる作文にすぎない。当然のことながら、捜査の進展とともに、捜査官の眼にも、一応かたまつたと思われた赤間自白の中にも、不合理なこと、事実に反することが含まれていることが、しだいしだいにはつきりしてきた。このことを示す最初の調書が、9.26山本調書(甲13P41)である。この調書は、「本月二十三日検事さんに対して申上げた事実について違つて居るかもしれないと思はれる事がありますから訂正します」という書き出しで始まつており、その中には、従来の供述とちがうことが二点あらわれる。

イ、肥料汲みの車の変化(第七章第四節第五参照)

森永橋たもとで出遭つた肥料汲みの車につき、それまでは、牛車か馬車であつたかのように言つていたのに、この調書では、「其の時私はその車は肥料桶を積んで何処かえ肥料を汲みに行く車だと云う事は判りましたが、薄暗でもあるし牛車か馬車と直感したのでありますが、或は牛車や馬車でなくて人の挽く荷車であつたかもしれません」ということになつた。

捜査官は、赤間自白の中に出てくる肥料汲みについて調べて見た結果、この肥料汲みに当るべき高橋鶴治が使つているのは、牛車や馬車でなく、荷車である、ということがわかつた。そこで、それにもとづき、赤間に尋ね、供述を変えさせたのが右の記載である。捜査官は、記憶のはつきりしない高橋鶴治に意識的、無意識的な誘導を加えて、同人から、赤間の自白の内容によく合う供述を得たが、「人のひく荷車」を「牛車か馬車」にすることはできなかつた。だから、この点については、赤間自白の方を変えさせて調整しなければならなかつたのである。

ロ、帰宅時間の変更(第七章第三節第五、第四節第五参照)

9.19玉川調書では「四時か四時三〇分頃」、9.21玉川調書では「四時半か五時頃」、9.23山本調書では「大体午前四時半過頃」、9.25唐松調書では「四時半過頃」と思うとされていた帰宅時刻につき、9.26山本調書では、「私が家え到いた時刻は前回四時半過位だと申上げましたが或は五時一寸過(五時五分か十分)であつたかもしれません其の晩は私は一回も時計は見て居りません其の時刻の明るさは十間位離れた距離で人の居る事は良く判る薄明りでありました」ということになつた。これは赤間の方からすすんでおこなつた供述変更ではない。山本検事が示唆、誘導しておこなわせた供述変更である。山本検事は、同じ九月二六日に、赤間自白との関係で、高橋鶴治(肥料汲みの農夫)や赤間ミナの取り調べをおこなつている。そして、それらの取り調べから、赤間の帰宅時刻が四時半ごろであるとしたのでは都合が悪い、ということを知り(もちろん、それ以前に得られていた資料も、参考にしたであろう)、赤間の供述内容を変更させて、それらとのあいだに矛盾が起こらないようにしたのである。――もつとも、「四時半ごろ」から「五時すぎ」への変化そのものは、それ自体では、とりたてて意味はない。右に掲げたように、赤間の供述自体、時計を見なかつた、ということを前提にしての供述なのだから、四時半と言おうと五時すぎと言おうと、その証拠としての価値にはほとんどちがいはないからである。しかし、当時の捜査官にはかならずしもそうは思われなかつたらしく、捜査官は、このとき、あまり意味のない供述変更をおこなわせ、赤間自白と他の証拠とのあいだの矛盾(これは、ほんとうは矛盾とは言えない)を取り除こうとしたのである。

肥料汲みの使つていた車と赤間の帰宅時刻の問題については、とにかく、このようにして、9.26山本調書の作成により片がつけられた。しかし、赤間自白の内容と両立しない資料は、今までのべたこと以外にも、つぎからつぎと集まつてきた。

三、本田アリバイと赤間自白の挫折

(第六章参照)

まず、赤間自白の中で、謀議、実行行為の中心人物とされている本田について八月一六日夜のアリバイの問題が起こつた。

本田は、赤間自白にもとづいて逮捕されてからのち、ずつと、「八月一六日夜は、国労福島支部事務所に寝ていた」という主張をしていた。そして、「そのことを一番よく知つているのは、木村である」ということを言つていた。ところが、その木村を調べてみると、木村は、「八月一六日夜は列車事故の起こつた夜なので、その夜のことは普通の夜のことよりはよくおぼえている。その夜、本田は、酒に酔つてやつてきて泊まつた。朝方になつて保線区から電話がかかり、近所の高橋とか橋本とか言う者を起こしてくれ、ということであつたので、組合に長くつとめている本田なら家の場所を知つていようと思つて起こしかけたが本田は起きなかつた。その後、今度は郡山分会事務所から、事故の知らせの電話が来たので、本田を起こしてその電話を渡した。本田はそのあとであちこちに電話をかけているようであつた」という趣旨の供述をした(9.30宮川調書甲49P70・第六章第二節、第三節―特にその第一と第二―参照)。すなわち、木村は、赤間自白の内容とまつこうから対立することを言つたのである。しかし、今度の矛盾は、赤間の供述内容を変えさせることによつては解決できない。赤間自白の中から本田を取り去つてしまつたら、もはやその信用性を維持することはできなくなるからである。そこで、捜査官は、今度は、木村に心理的圧力を加え、その圧力により、木村の記憶を無理やりねじ曲げて、「前言つていたことは記憶ちがいであつた。記憶ちがいをしたのは、岡本らに、本田が泊まつたことはまちがいない、と働きかけられたからである」と言わせ(10.5宮川調書甲49P76)、赤間自白の内容とのあいだに表面的な統一を保つた(第六章第三節第五参照)。

しかし、心理的圧力により木村の供述を変えさせたところで、本田アリバイを否定することはできなかつた。よく検討すると、供述変更後の木村供述自体、本田アリバイを証明しているようなものであるし(第六章第三節第三、第四、第六、第七参照)、その他にも、変更前の木村供述を真実と考えなければ説明できない、あるいは、しにくい資料が数多くあつた(たとえば、「八月一七日早朝、国労福島支部事務所にいるという本田から、事故の内容を尋ねる電話をもらつた」という相楽の供述―第六章第四節第三参照―、「八月一六日夜国鉄関係者が二人泊まつた」という小尾の供述―第六章第三節第五の六、第六節第三の五参照―、「八月一七日朝本田らしい男が寝ていた」という羽田、菅野の供述―第六章第三節第七の三、四、第六節第三の三参照―など)。ところが、捜査官は、これらの問題については答えを出さないまま、木村の供述を変更させることにより本田アリバイを否定できた、という立場に立ち、それ以後の手続を進めた。これらの問題についての答えは、それ以後、今日にいたるまで、まつたく与えられていない。当民事事件の被告もいろいろ言つているが、それらは、非常識なことや意味のないことばかりである。結局、捜査官は、本田アリバイについての証拠の大部分を「武田、岡田らのアリバイ工作」によつて作り出された虚偽の証拠と見て、これを無視したのである。この見解がまちがつていることは第六章でくわしく論証したとおりである。

四八月一五日の謀議における、高橋と蛭川のアリバイ―太田自白への発展の契機(第七章第二節第三、第四節第八参照)

とにかく、捜査官は、右にのべた本田アリバイの関係証拠の出現により赤間自白が実質的につぶれてしまつたにかかわらず、「木村の供述を変えさせることにより本田アリバイの問題は解消された」という立場をとつた。しかし赤間自白の中には、それ以外にも、重大な点で事実に反することが含まれていた。

まず、捜査の進展とともに、八月一五日の謀議に参加し、赤間の両どなりにすわつていたことになつていた高橋、蛭川のアリバイが成立することが、だんだんはつきりしてきた。

このことは、本田アリバイの問題と同様、実に重大なことである。高橋は、赤間自白の中では、国鉄側から赤間、本田とともに実行行為に参加した者であり、八月一五日の謀議の席では赤間のとなりにすわつていた、ということになつている。その高橋が八月一五日には福島市にいなかつた、ということになると、赤間が言つている高橋は、ほんとうは高橋ではないのではないか、そうすると、高橋以外の者もあてにならないのではないか、などと、つぎからつぎと疑問が起こつてくる。10.1山本調書二九項のつぎの記載は、当時の捜査官の気持をよくあらわしている。

それから只今申述べて来た事で一寸確信のない事がありますから私の良心に訴えて申述べて置きます八月十五日組合支部事務所で列車脱線の相談をした時その相談をしたもので

本田昇

阿部市次

鈴木信

二宮豊

の四人は名前も顔も絶対に間違へる事が出来ない程良く知つて居りますので間違いありませんが、

高橋晴雄

は伊達駅事件に私と共に引掛つてから知つた男であつて夫れまで余り良く知らなかつた男であるから確かにその相談をする時、私の右側に腰を掛けて居つたと思ひますが、その席ではあまり喋らなかつたので明神に誓つて間違ひなく高橋晴雄であつたと断言が出来ないのであります蛭川もその場で蛭川と云ふ姓を始めて聞いたものであり夫れまで全然知らない人であつたので、私の左に腰を掛けて居つた男が絶対に間違いなく蛭川と云う男でありますと断言がし兼ねます併し八月十六日の晩、鈴木製板所の前で本田と共に私の来るのを待つて居て私と三人で現場に行き脱線の工事をしたものは高橋晴雄であると云ふことは五時間も一緒に居つて仕事をしたのであるから、私の良心に誓つて絶対に高橋晴雄であると云ふ事は間違いなく断言出来ます

此の間も福島地区署で高橋晴雄を見せて貰ひましたが、絶対に一緒に行つた高橋に間違いありません(甲13P61)

しかし、赤間からこのような供述を得たところで、問題はすこしも解決されていない。赤間は、自分の両どなりに高橋、蛭川がいたという自分の記憶そのものを否定しているわけではない。このことは、右の記載自体からあきらかである。赤間が真犯人であつて、ほんとうに八月一五日の謀議の席で本田、高橋とともに実行行為者に指名され、一六日夜鈴木材木店材木置場に集まつて、現場まで行き、脱線作業をおこない、そこからふたたび三人一緒に帰つてきた、というのであるならば、実際にいなかつた高橋が謀議の席にいたかのように記憶しているなどということは、普通には考えられないことである。また「かりに二人が高橋、蛭川以外の人間であるとすると、それはだれであるか」というような問題も起こつてくる。このような問題は、現在にいたるまで全然解決されていないのである。――警察官は、「赤間が高橋、蛭川と言つているのは、実は、東芝からやつてきた佐藤一と太田ではないか」という想定を立て、その想定を太田に押しつけ、そのことによつてこの問題を解決しようとした。しかし、この想定は、諏訪メモの発見により、つぶれてしまい、依然として、この二人は正体不明のままである。また、警察官がこのような想定によつて太田自白を作り上げたのちも、検察官の方では、どうしても高橋のアリバイを認める気になれず、太田の警察官調書の中では一旦いなかつたことになつた高橋を(警察官の想定そのものが、高橋がいなかつたことを出発点としてでき上つたものなのであるから、当然のことながら、太田の警察官調書では、高橋はいなかつたことになつている)、検察官調書の中で、くり返し、八月一五日連絡謀議の席に復活させていた。太田の検察官調書の中で高橋が謀議に出席しなかつたことが確定するのは、10.30三笠調書(甲13P198)においてなのである(なおこれらのことについては、第三章第一節第二、第三にくわしくのべたとおりである)。

しかし、とにかく、捜査官は、10.1山本調書二九項の記載で高橋、蛭川のアリバイの問題は片がついたものとし、赤間自白の信用性は持ちこたえられるという立場をとつた。

高橋、蛭川に関する問題の記載のなされている10.1山本調書(甲13P42)は、それまでの捜査の結果を参考にして得られた、赤間自白の集大成とも言うべき調書で、詳細な記載のなされている調書である。その内容は、高橋、蛭川に関する部分を除き、9.26山本調書までにのべられていたことと大体同じである。10.2唐松調書(甲13P1)は、10.1山本調書とほとんど同じ内容を持つた調書である。ただ、この調書には高橋、蛭川に関する特別の記載はなされていない。――赤間は、「10.1山本調書二九項の記載は、一〇月一日になされたのではなく、一〇月中旬、または、下旬になつてからなされたものである」と主張していること、この主張はかならずしも嘘とは断定できないこと、かりに嘘であつたとしても、それは赤間が真犯人であることの証拠になるものではないことなどについては、第七章第四節第八参照のこと。

五、永井川信号所南部踏切通過の虚偽(第七章第二節第二参照)

つぎに起こつた問題は、南部踏切通過の問題である。

赤間は、最初の自白調書である9.19玉川調書以来一貫して、現場に行く途中永井川信号所南部踏切を通過した、ということをのべていた。しかし、通過に際し特別変つたことがあつたことをうかがわせるようなことは、なにものべていなかつた。

実際には、その夜にかぎつて、いつもは踏切番のいない南部踏切に、臨時の踏切当番が出ていた。虚空蔵様のお祭の人通りを警戒するためである。赤間は、そのことを忘れていたため、踏切には人のいないことを前提にして供述していたのである。

ところが、捜査が進むにつれて、その夜臨時に踏切当番が出ていたことがはつきりし、その者達の言うところにより、赤間らが彼らに気づかれずにそこを通週することは、不可能であつたらしい、ということがわかつた。そこで、田島検事は、それらのことを頭に置き、特にこの点について赤間に尋ねた。そして、その結果ができたのが10.19田島調書(甲13P62)である。10.19田島調書の記載はつぎのとおりである。

一、私は永井川線路班に四年三ヶ月も勤めて居りましたので、毎年正月と夏の虚空蔵様の宵祭の夕方からその翌朝にかけて東京基点二六九粁二百米の踏切には臨時に踏切番が出来て線路班の者が三人か四人で警戒する事は承知して居りました。私は、今年の正月に宍戸進、朝倉正夫、小林源二の三名と一緒に夜の七時か八時頃から午後十二時頃まで警戒した事があります。それで、その踏切に臨時踏切が出来る事は良く知つていたのです。ところが私は、本年八月十六日列車顛覆の工作に行く途中、高橋と本田と一緒にその踏切を通つたのであります。私は、その晩が虚空蔵様の宵祭だと云う事は知つておりましたがその踏切に来るまで踏切番が出来ておると云う事を気付かず、テントを張つてあるのを見てハツと思ひました。然し誰も踏切には居りませんし人通りもなかつたので、急ぎ足でその踏切を渡つて、平田村方面に行く道路に出て、それを真直ぐ歩き、橋梁より東京寄りの二六八粁七百米附近から線路に出て、線路の右側だか左側だかはつきりしませんが、多分右側を通つたと思ひますが、線路伝いに大急ぎで東京方面へ行つたのです。行く途中は一回も休まないで行きました。話はしながら行きましたが、その話の内容は今憶ひ出せませんから思ひ出しましたら申します。

二、八月十六日の晩、最初に雨が降り出したのは私は虚空蔵様に居た時で、時刻は午後十時過頃ではなかつたかと思ひます。雨が降り出したので参詣人の人達は大部分帰つて了ひました。それから時々小雨が降りましたので私達が踏切を通る頃には人通りはなかつたのであります。それで踏切の警戒に当つた人達はテントの中に入つて居たものと思ひます。尤も踏切警戒の人達は汽車の通る度に出る丈で、汽車が通らない時にはテントの中で休んで居るのです。踏切に張つてあつたテントは草色のテントでその晩暗かつたのですから、遠くからはそのテントが見えなかつたのであります。若し臨時踏切が出来ておるという事に早くから気付いておりましたならば、私共は見つかつては大変ですから、別な道を通つたと思ひます。

すなわち、赤間は、自分達が通つたとき踏切当番の者はテントの中にいたらしくて踏切には出ていなかつたこと、だから急いで渡つたこと、その晩暗かつたので遠くからはテントには気づかず、踏切まで来てしまつてから気づきハツとしたこと、もつと早く気づいていたら、見つかつたらたいへんだから別な道を通つたと思うということ、などをのべた。赤間は、自分でも、正月に、南部踏切で臨時の踏切警戒をしたことがあり、そのときのことを頭に置いて供述したのである。赤間が警戒当番となつたときには、テントは、土手の上ではなく、土手と田とのあいだのくぼ地にあり、当番の者は、その中にはいつているかぎり、踏切を通過する者を見ることはできなかつた。赤間の右の供述はそのことを前提にしておこなつたものである。

赤間の供述は、それまでに得られていた踏切当番達の供述と、あきらかに食い違つていた。それらの供述によれば、赤間自白の中で赤間らが南部踏切を通過したとされている一二時すぎごろには、踏切当番の者が踏切に出ていたことになつていたからである。

そこで、田島検事は、今度は赤間の供述内容を頭において、もう一度踏切当番達に尋ねてみた。そして、その結果、一二時すぎには当番達はテントの中にはいつていたこと、テントは踏切のすぐそばに(言つてみれば踏切そのものに)たてられていたこと、その夜にかぎり電燈がともされていたこと、などがわかつた。

この取り調べによつてわかつたことの中には、赤間の供述とよく合つている点と、合つていないように思われる点が含まれている。

よく合つているのは、一二時すぎには当番達はテントの中にはいつていて踏切に出ていたわけではない、ということである。このことは、赤間がはじめて言い出したことであつて、それまでのあいだは、当番達は、そのころ、だれかがテントを出て踏切にいたようにのべていたのである。赤間は、自分でも正月に踏切警戒をおこない、そのときには、汽車の通らないときはテントの中にはいつていたので、そのときのことを思い出してのべたのである。

赤間の言うことと合いそうもないのはテントの位置と踏切付近の明るさのことである。赤間の言うことによれば、「その夜暗かつたので踏切に来てしまうまでテントのあることに気づかず、引き返しのきかなくなるところまで来てしまつてから気づいてハツとした。しかし、当番の者達はテントの中にいるらしくて踏切には出ていなかつたので急いで渡つた。もつと早く気づいていたら、見つかつてはたいへんだから、別の道を通つたと思う」という趣旨のものであるから、赤間は、「踏切付近の状況は、引き返しがきかなくなるほど近くに来るまではテントに気づかないような状況であつたこと」、「当番者達がテントの中にはいつていれば、踏切を通つてもその者達には気づかれずにすむ状況であつたこと」を前提にして供述していることになる。これらの事実は、踏切当番に当つた者達の言うところからあきらかにされているその夜の実際の姿と合わないのである。実際にはテントは踏切そのものと言つてよいところに作られていたのであり、その夜にかぎつて電燈がともされていて、踏切には人がいないので急いで通りすぎるとか、暗かつたため引き返しがきかなくなるほど近づくまで踏切に気づかない、などということはありえない状態であつたのである。

田島検事は、この食い違い(あるいは食い違いの可能性)に気づいていた。しかし、あとになつてこの事件の捜査に関与するようになつた田島検事は、一応、赤間自白の信用性を前提にして、捜査を進めた。すなわち、田島検事は、赤間の言うことがほんとうであることを前提にして、踏切当番達の供述の方を赤間の言うことに合わせることができるかどうか、という方向から、両者の統一がとれるかどうかを検討してみたのである。たとえば、踏切付近の明るさにつき、鈴木昭太郎10.21田島調書には、

踏切に張つたテントは、その晩真暗だつたから遠くからは見えなかつたと思ひます(甲55P74)

と記載され、佐藤政吉10.21田島調書には、

その晩テントの南側つまり東京寄りの方四米位の電柱に六十ワットの電球をつけて置きましたが踏切全体の見通しがつく程明るくありませんでした。(甲49P159)

と記載され、加藤昭治10.21田島調書には、

テント内には明りはありませんでしたが只今図燈丈はありました。テントの近くには高い処に電気をつけておきましたが、うすぼんやりと踏切が見える程度で、余り明るくありませんでした。テントの色はぼけたような青い色でありました。テントが張つてある事は踏切の近くに来れば見えたでせうが遠くからは見えなかつたと思ひます。(甲54P158)

と記載されているが、これらの記載は、田島検事が右のような検討をしてみたことの痕跡である(もともと、明るさなどというものは、同じ明るさでも、なにを基準にするかによつて、言い方が変り、「明るい」とも「暗い」とも言えるのであるから、調書の中に、右のように、あまり明るくなかつたことを強調することが記載されていても、それは、明るさそのものを判定する資料としては、あまり意味がないのである。右の記載は、明るさそのものを判定する資料と言うより、当時の田島検事の関心の対象を示す資料と言うべきである)。

しかし、田島検事は、赤間自白の真実性をどうしても疑わずにはいられなかつた。赤間の供述と客観的事実とはちがうのであるから、本来、疑うのがあたりまえなのである。疑わない方がどうかしているのである。そして、その結果、田島検事は、この点についての捜査の一段落したのちである一一月一一日(田島検事は、前日である一一月一〇日に、赤間から最後の自白調書をとつていることに注意)に、踏切当番の一人である佐藤政吉を呼び出し、つぎのような調書を作成した。

一、前回申上ました踏切警戒の場所の電灯はその晩特につけて貰つたのでありますが電灯は一晩中つけたのであり汽車が通らない時には消したという訳ではありません

二、その場に張りましたテントは築堤の下に張つたのではありませんので返つて道路よりも高い処にそのテントは張つていたのであります(甲49P160)

この調書には右の記載しかない。記載内容自体から見ても、調書作成の経過から見ても、この調書は、田島検事が「汽車が通らないときには電燈が消えていたのではないか。テントは築堤の下に張つてあつたのではないか」と考えていたことを物語つている。そして、田島検事がこのようなことを考えたことの原因は、赤間の供述自体以外にはありえないのである。すなわち、田島検事は、「汽車が通らないときには電燈が消えていた、テントは築堤の下にあつた、という二つの事実が認められないと、赤間自白は虚偽であることになつてしまう」というように考えたのである。しかし、佐藤政吉11.11田島調書により、この二つの事実は二つとも認められないことがはつきりした。

この時点で、赤間の供述と現実との食い違いは動かしがたいものであることがあきらかとなつた。赤間は、自白を始めて以来一貫して、現場に行く途中南部踏切を通過したとのべ、特に、田島検事に尋ねられてからは、その夜の南部踏切の状況を具体的にのべた。ところが、赤間の言うことは、実際の状況とはまつたくちがつていた。「赤間は、真犯人であるにもかかわらず、南部踏切に関してことさら嘘を言つている」とか、「赤間が記憶ちがいをしていてもしようがない」と考えさせるような事情でもあれば別であるが、そのような事情もまつたくなかつた。客観的にもなかつたし、当時の捜査官の眼から見てもなかつたはずである。

捜査官は、赤間自白と他の証拠との矛盾に気づいたとき、すでに見てきたように、たいていの場合、その矛盾をなんとか解消しようとつとめた。それは、ほとんど全部、失敗に終つた(だから、本来なら、南部踏切通過の問題が起こるよりも前に、赤間自白を信用する立場をすてるべきであつた)が、とにもかくにも、解消しようとこころみることだけはした。しかし、南部踏切通週の問題に関しては、それさえもしなかつた。もつと正確に言えば、しようとしたができないことが明白になつた。赤間10.19田島調書作成以後おこなわれたこの点についての捜査は、すべて、この矛盾の解消の努力のあらわれであると言うことができる。しかし、その結論が、前掲の佐藤政吉11.11田島調書であつたのである。それにもかかわらず、捜査官、公訴官は、「赤間自白の真実性には合理的な疑いが残らない」という立場をすてようとしなかつたのである。そして、刑事事件における検察官も、当民事事件になつてからの被告も、この点について、常識では理解できない議論にもとづいて、「赤間の言つていたことと現実の状況とのあいだに矛盾はない」と、主張し続けているのである。

第三、赤間自白から謀議関係の自白への発展とその挫折

一、はじめに

以上、原告らに対する刑事訴追の出発点となつた赤間自白が、どのようにして生まれ、どのような矛盾を含むかを概観した。結局のところ、要するに、赤間自白については、それが生まれるまでのいきさつを見ても、その内容を見ても、その変遷のあとを見ても、その真実性を保証するようなものはなにひとつとしてなかつたのである。それどころか、自白がなされるまでのいきさつは、赤間が真犯人でなくとも自白せざるをえないようなものであつたのであり、その内容となる事実には、赤間自白が真実であるということと両立しえない、あるいは、しにくい事実が、たくさん含まれていたのである。――なお、赤間自白の中には、右にのべてきたこと以外にも、不合理なことや事実に反することは含まれている。それらについては、捜査官の方でもそれに気づかなかつたのか、あるいは、気づいても、それを解明しようとしなかつたのか、それはよくわからない。

赤間自白がこのようなものである以上「赤間自白は、将来、裁判官により、合理的な疑いを残さないまでに信用できる、と判断される可能性がある」というように考えることは、非常識もはなはだしいものであつたのである。赤間自白の、反対側(東芝側)への投影、または引き写しにすぎない浜崎自白(第八章)も同様である。

したがつて、捜査官は、すくなくとも第二にかかげた、本田の実行行為についてのアリバイ、八月一五日謀議についての高橋、蛭川のアリバイ、永井川信号所南部踏切通過の虚偽など(すでにのべたとおり、これらは、そのどれを取り上げても、赤間自白の明白かつ重大な欠陥なのであつて、これらがつみ重なれば赤間自白のすじ書きの全体がつぶれてしまうのである)があきらかになつたときに、赤間自白は大すじでは正しいという想定を棄て、原告らを釈放すべきであつた。ところが、捜査官は、それをしないで、さらに右の想定のもとに、赤間自白の背後関係としての謀議関係を追求しようとした。そして、得られたのが、太田自白を中心とする謀議関係の自白である。

しかし、その謀議関係の自白も、つぎつぎに発見された証拠によつて、その虚偽架空なことが証明される結果となつた。このことは第三章でくわしく論証したとおりである。もともと、「赤間自白は大すじでは正しい」という捜査官の想定が右に見たようにまちがつていたのであるから、右のような結果となつたのは、いわば当然の帰結だつたと言える。つまり、太田自白などでのべられた謀議関係の事実が虚偽架空であることを証明する証拠が、つぎつぎにあらわれたという事実そのものが、捜査官の右の想定(つまり赤間自白は大すじでは正しいという想定)の挫折のあとをしめすものである。以下第二ないし第五章の論証にもとづいて、その経過を要約してみる。

二、八月一五日の国労福島支部事務所での「連絡謀議」

これについて、第三章第一節で論証したところを要約すると、つぎのとおりである。

赤間自白では、赤間は八月一五日午前一一時ごろから国労福島支部事務所で鈴木信、阿部市次、二ノ宮豊、本田昇、高橋晴雄、蛭川正の六人の人と列車転覆の相談をし、そのとき高橋と蛭川は支部の事務机の北側の赤間の席の左右に坐つたということになつていた。ところが、捜査の結果、高橋はその日米沢市の妻の実家におり、蛭川は自宅にいて、どちらも支部事務所へは来なかつたことがはつきりした。つまり、高橋、蛭川のアリバイが立つてしまつたのである。ところで、赤間自白では、終始、八月一五日決議の席で左右のとなりに高橋と蛭川が坐つたとのべられていて、ただ赤間10.1山本調書のなかで「左右に坐つていた人が高橋と蛭川であつたとは断言できない」という供述があらわれたにすぎない。つまり、「赤間自白は大すじでは正しい」という捜査官の想定を維持するかぎり、赤間の左右の席には正体不明の二人の人が坐つていて、赤間はまちがつてこれを高橋、蛭川と思いこんでいたということになる。

しかし、捜査官としては、右の二人を正体不明のままにしておくことはできない。当時、赤間自白は大すじでは正しいという想定のもとにその「背後関係」としての「謀議関係」を追求し、「国鉄労組と東芝労組の関係者の協力による犯行」という疑いを持つていた捜査官(安斎巡査部長)は、この正体不明の二人は東芝労組から連絡に来た太田省次と佐藤一ではないかと考えた(その理由については第三章第一節参照)。

つまり、捜査官の想定は、太田と佐藤一が八月一五日午前八時三一分松川発の汽車(赤間が言つている「謀議」の時刻に間に合う汽車はこれ以外にない)に乗つて福島に来て、国労福島支部事務所で鈴木、二ノ宮、阿部、本田と、あとから来た赤間を加えて列車転覆の相談をした(つまり、赤間自白のなかでのべられている八月一五日午前の「謀議」に東芝側から太田と佐藤一が参加した)ということだつたのである。そして、この想定を当時すでに捜査官の心理的圧力に屈服し死刑をまぬがれ、寛大な処分を受けたい一心からこれに迎合し、誘導されるままに、そのおもわくどおりの供述をするような心理状態になつていた太田に押しつけ、右にのべた想定どおりの自白をさせた。これが、太田10.16安斎調書であつて、第三章第一節でのべた第一次太田自白の出発的である。

玉川警視は、これに「共産党から、列車転覆について、金が出た」という、もう一つの想定をからませ、「正午ごろ右の謀議がおわつたのち、佐藤一は共産党福島地区委員会へ行つて、同委員会の鈴木信から三五万円の転覆謝礼金を受け取り、そのあいだ、太田は闇市などを見て時間をつぶし、福島駅で佐藤一といつしよになり、午後五時ごろの汽車で松川に帰り、これを杉浦に渡し、杉浦は、一六日夜東芝側の関係者全員を谷間寮の自室に集めて、これを分配した」という「転覆謝礼金自白」をつけ加えさせた(10.17玉川調書)。――この転覆謝礼金自白が根も葉もないでたらめであつたことは被告も争わない明白な事実であり、このことは、第四章でくわしくのべたとおりである。

つぎに笛吹検事が一〇月一七日(玉川とおなじ日)に太田を取り調べた。前述のとおり、第一次太田自白の出発点は、赤間自白で、八月一五日午前の「謀議」のときに赤間の左右のとなりの席に坐つたということになつていた、「高橋、蛭川」のアリバイが成立するため、そこに正体不明の二人の人がいたことになるので、この二人を東芝側から連絡に来た太田と佐藤一と想定したことにある。だから、右の想定にしたがえば、高橋が右の「謀議」に出席するということは、ありえないことである。

ところが笛吹検事は、その段階では、まだ高橋のアリバイを信ずることができなかつた。高橋のアリバイを認めると、前述のとおり、赤間自白のすじ書きそのものがくずれてしまうからである。そこに、安斎、玉川の両警察官と笛吹検事のあいだの想定のくいちがいがあつた。そこで、同検事は、右の安斎、玉川調書の内容を踏襲しながら、「高橋もまた右の謀議に出席したとい」う想定で「謀議」の出席者のなかに高橋をつけ加えさせた(つまり、右の10.16安斎調書と10.17玉川調書では七人だつた「謀議」の出席者が、笛吹調書では八人になつた)。

しかし、赤間自白では、前にのべたとおり、高橋、蛭川、赤間の三人が支部の事務机の北側に、坐つたことになつている。そして、右の安斎、玉川調書では、前述の想定にしたがつて、太田、佐藤一、赤間の三人が、順序はわからないとはいうものの、ともかく右の事務机の北側に坐つたことになつている(つまり、赤間自白の「高橋、蛭川」に、「太田、佐藤一」がいれかわつて、順序はわからないが、ともかく北側に坐つたということになつている。第三章第一節にかかげた図面参照)。北側の席の数は三つである。したがつて「太田、佐藤一、赤間」の三人が北側に坐つたということになれば、高橋の坐るべき席は北側には、もはやないことになる。だから、赤間自白では、北側の赤間の右に坐つたことになつていた「高橋」が、右の10.17笛吹調書では、そのまむかいの、南側の鈴木信のとなりに坐つたことになつているのである。ほかの「出席者」、すなわち鈴木、二ノ宮、阿部、本田の関係位置(これは赤間自白でも、太田自白でもおなじである。赤間と太田が無関係に言つたはずのこれらの人の関係位置がぴつたり一致しているのである。第三章第一節参照)を動かさないで、「高橋の座席」を作ろうとすれば、この場所以外にはない(第三章第一節の図面参照)。――もともと、赤間自白のなかでのべられている「八月一五日午前の謀議」の出席者である鈴木、二ノ宮、阿部、本田の、右の「謀議」の席での「着席位置」が、太田自白でのべられている右の四名の「着席位置」とぴつたり一致し、しかも「赤間が北側に座つた」という点でも一致するということがすでに、太田自白の原本が赤間自白であつたことを証明する事実なのである。太田は八月一五日午前午後とも松川工場の団交に出ていて、松川町から一歩も出なかつたのであるから、赤間自白のなかで言われている「八月一五日午前の国労福島支部事務所の謀議」が、かりに実際におこなわれたものとしても、その「出席者の着席位置」を太田が知つているはずはない。したがつて、捜査官が、前述のように、赤間自白でのべられている八月一五日午前の「謀議」に東芝側から太田と佐藤一が出席したという想定をもつて赤間自白を原本として太田を誘導して言わせないかぎり、赤間自白と太田自白のあいだに、右のような供述の一致が生ずるはずもない。なお、太田自白で「北側に坐つた太田、佐藤一、赤間の順序がわからない」とされているのは、赤間自白でやはり北側に坐つたことになつている「高橋、蛭川」を太田自白では「太田、佐藤一」に入れかえ、つまり北側の着席者については、原本とちがうことを言わせなければならないので、そこまで誘導することをさしひかえたにすぎない。しかも右に見たように、太田10.17笛吹調書でさらに「高橋」をその出席者のなかにつけ加えさせるときには、「高橋」は、赤間自白で空席になつている南側の鈴木のとなりの席(北側も南側も座席の数はそれぞれ三つである。したがつて、赤間自白でのべられているように南側に鈴木と二ノ宮が坐つたものとすれば、南側にはもう一つの空席があつたことになる)に坐つた、ということにされたのである。太田自白の原本が赤間自白であつたことは、このことだけから、見ても明白である。

しかも、それだけでなく、右の10.17笛吹調書では、高橋が「おれも行くから大丈夫だ」(甲13P164)という「発言」をしたということになつている。「おれも行くから大丈夫だ」という「発言」は高橋が右の八月一五日午前の「謀議」に出席して、しかも、そのときすでに線路破壊に行くことを予定されていたこと(赤間自白の内容)を前提としなければ考えられない「発言」である。ところが前述のとおり、高橋は、そのとき米沢市の妻の実家にいたのである。

「高橋が八月一五日午前の謀議に出席した」というのは、もともと赤間自白のなかだけに存在した嘘である。それとおなじ嘘が、右のようなきわめて具体的な供述として太田の10.17笛吹調書にもあらわれてきた。このことがなにを意味するかは明らかであろう。

太田は八月一五日午前午後とも松川工場の団交に出ていて、松川町から一歩も出なかつた。一方、高橋は、その日米沢市の妻の実家にいて、これもまた福島市にはいなかつた。その太田が、八月一五日午前福島市内の国労福島支部事務所での「謀議」の席で高橋と出会つたというまつたく根も葉もない嘘を言い出し、そのうえ「高橋の座席」をしめす図面を画き、しかも「おれも行くから大丈夫だ」という「高橋の発言」までのべたのである。これは、太田がたとえどのような錯覚をおこし、またはどのような嘘をつこうとしても、太田だけで考え出せる供述ではない。その日一日中松川町にいた太田の頭から、このような供述がでてくるはずはないのである。

すなわち、太田を取り調べた笛吹検事が、その当時まだ、高橋のアリバイを信ずることができないで、「高橋が八月一五日午前の国労福島支部事務所での謀議に出席した」という赤間自白が真実であるという想定をもつて、これを太田に押しつけ、赤間自白を原本として太田を誘導し(ただし、「高橋の座席」だけは右にのべた理由で、赤間自白とちがつている)、太田がこれに調子を合わせた結果、右のような、明白に虚偽架空でありながら、きわめて具体的で、しかも赤間自白の趣旨にそつた供述がなされた、と考えるほかに考えようがないのである。第一次太田自白の原本が赤間自白であり、しかも、太田が、その当時、捜査官の心理的圧力に屈服し、その誘導のままにそのおもわくどおりの供述をしていたことを、これほどはつきり証明している事実はない。

太田が八月一五日午前午後とも、松川工場の団交に出席していて、松川町から一歩も出なかつたことと、高橋がその日米沢市の妻の実家にいて、これまた福島市にはいなかつたことは、証拠上明白で被告も認めている事実である。したがつて、右の推論は、被告も認めざるをえないはずである。

ともかく、右のような事情で、笛吹検事は、太田10.16安斎調書と10.17玉川調書の内容を踏襲しながら、「謀議」の出席者のなかに「高橋」を加えさせ、さらに、すでに玉川警視が太田にのべさせていた虚偽架空の転覆謝礼金自白を、いつそう詳細かつ具体的にして、これを八月一五日正午ごろ「謀議」がおわつたあとの福島市での太田の行動見聞に織りこんでのべさせた(太田が八月一五日午前午後とも松川工場の団交に出席していたことは被告もあらそわない明白な事実なのであるから、これが虚偽架空の作文であることは、被告も認めるであろう――第三章第一節、第四章参照)。これが太田10.17笛吹調書であり、このようにして、第一次太田自白が完成されたのである。

ところが、一〇月二四日松川工場から諏訪メモが押収され、その記載によつて太田が、八月一五日午前午後とも、松川工場の工場長室でおこなわれた団交に出ていたこと、および、佐藤一も午前の団交に出て二回発言し、佐藤一の二回目の発言を最後として午前の団交の記録がおわつていることがあきらかになつた(第二章第二節)。つまり、第一次太田自白でのべられていた、太田と佐藤一が、八月一五日午前八時三一分松川発の汽車で福島へ行つたというような事実がありえないことは、これではつきりしたのである。

赤間自白でのべられていた八月一五日午前の「謀議」について、高橋、蛭川のアリバイが成立し、赤間の左右に正体不明の二人が坐つていたことになるところから、この二人は、東芝側から連絡に来た太田と佐藤一であつたと考えた捜査官(安斎巡査部長と玉川警視)の想定は、これで、完全につぶれたのである。捜査官はこの機会に、太田自白とそのもとになつた赤間自白を根本的に検討しなおして、原告らを釈放すべきであつた。ところが、捜査官は、これでもなおあきらめないで、その想定を立てなおして、太田にもう一度自白のしなおしをさせた。これがつぎにのべる第二次太田自由である。

すなわち、右の諏訪メモが松川工場から押収された日である一〇月二四日に、安斎巡査部長がもう一度太田を取り調べた。諏訪メモを見ると、太田は午前午後とも団交に出たことになつているが、佐藤一は午前だけ出て、午後には出なかつたことになつている。そして、午前の団交の記録には佐藤一の二回の発言が書かれていて、佐藤一の二回目の発言の記載で午前の団交の記録がおわつているが、そのおわつた時刻は記録されていない。そうすると、太田は行かないで、佐藤一だけが国労福島支部事務所へ行つたということが一応考えられる。

一方、国労福島支部事務所の方では、午後一時ごろには、本田昇が支部書記田村千枝子といつしよに映画を見に出かけたという事実がある。もし、午前の団交がおわつたのち、佐藤一が午後〇時三〇分松川発のバスに乗つて福島市へ行つたものとすれば、その福島着の時刻が午後一時ごろになり、太田らと「謀議」する時間がほとんどなくなつてしまう。したがつて、佐藤一は午前一一時一五分松川発の汽車に乗つたのであろう。――これが、安斎巡査部長の、つぶれてしまつて前の想定の上に立てなおした新たな想定である。つまり、右にのべた時間の関係から見て、午前の団交がおわつたのちに佐藤一が松川を出発したことにしたのではまにあわないのであつて、どうしても佐藤一が午前一一時ごろ、午前の団交の中途でぬけ出したことにしなければならなかつたのである。

安斎巡査部長は、右の想定で太田を誘導し、その結果、太田は、「八月一五日私と佐藤一が福島へ行つたとのべたのはまちがいで、私は午前午後とも団交に出ていて、佐藤一だけが行つた。佐藤一は午前一一時ごろ、ひとりで団交の場からぬけ出して行つた。一三日の連絡謀議で約束された、列車転覆計画についての具体的な打ち合わせのため、国労福島支部事務所へ行つたものと思う。午後五時すぎに佐藤一が帰つて来て、八坂寮真の間で、杉浦と私に謀議の結果について報告した」と供述した。

これが第二次太田自白である。しかし諏訪メモを見ても、田中メモを見ても、午前の団交の記録の最後の部分に佐藤一の発言が書かれているのに、その発言がおわつた時刻が記入されていないというとところから、佐藤一が午前の団交の中途で午前一一時ごろぬけ出したと想定することが、そもそも無理だつたのである(第二章第三、四節)。一〇月二九日、吉良慎平検事が諏訪メモの午前のおわりの筆者であつた事務課長西肇を取り調べたところ、西は、「最後に佐藤一が相当長く発言し、私の記録がおわつたとき午前の交渉がおわつたように記憶します」とのべ、佐藤一が午前の団交の最後に発言し、それで午前の団交が打ち切られたことを確認したのである(田中メモの筆者である田中秀教も笛吹検事によつて取り調べられたが、田中メモはしめされもしなかつたし、また田中メモについてはなにも聞かれなかつた)。

右の諏訪メモ、田中メモの記載と西肇の供述を合わせて普通に考えれば、佐藤一は午前の団交の最後までいたことになる。そして午前の団交が正午におわつたことは、正拠上明らかな事実なのであるから、佐藤一は正午まで工場長室にいたことになるのであつて、右にのべた安斎巡査部長の想定は成り立たないのである(これについてのすべての議論は、第二章でしつくした)。

しかも、それだけでなく、佐藤一は、午前の団交が正午におわつたのち、八坂寮真の間の自室で昼食をとり(木村ユキヨ供述)、そこに杉浦と紺野三郎が来て、紺野は東京出張の報告をして、まもなくこの二人は帰り(紺野三郎供述)、その後、午後一時ごろ、佐藤一が、組合事務所へ行つたところ、執行委員は団交には出はらい、宣伝部長二階堂武夫は郡山へ出張して留守だつたのに、宣伝活動をするはずの青年部員が組合事務所に顔を見せていないので、佐藤一は、午後の団交は地もとの執行委員にまかせて、おろそかにされている青年部の活動を推進する気になり、いあわせた西山スイを青年部長高橋勝美のところへ迎えにやつたが、高橋は、自分は来ないで、本田基ら五人の青年部員を派遣してよこしたので、これらの人たちに宣伝ビラを持たせて、午後二時二二分松川発の汽車で福島へ行かせた(西山スイ、本田基、高橋勝美供述)。

これらの一連の事実が、関係者の自然に関連する供述によつて証明されていて、そこにアリバイ擬装工作などが考えられる余地がまつたくないことは、第二章第六節でくわしく論証したとおりである。佐藤一が八月一五日午前午後にわたり松川工場にいたことは、疑問の余地がない。そして、佐藤一が行かなければ、「連絡謀議」も、またこれについての「報告」もありえないのであるから、八月一五日の「連絡謀議」についての太田自白がはじめからおわりまで、右にのべた捜査官の想定による強制誘導とこれに対する太田の迎合によつて作りあげられた虚偽架空の作文であつたことは明白である。

三、八月一三日の国労福島支部事務所での「連絡謀議」

八月一三日の連絡謀議についても、右とおなじようなことが言える。これについて第三章第三、四節で論証したことを要約すればつぎのとおりである。

この場合も赤間自白が出発点になつている。つまり謀議関係は、赤間自白が、真実であるという前提に立つて、その背後として追求されているのである。赤間自白によれば、赤間は八月一三日午前中国労福支部事務所でおこなわれた伊達駅事件関係者の弁護人選任などについての打ち合わせ会に出て、それがおわつて正午すぎに帰ろうとしたとき、その会の世話役をしていた阿部市次に呼びとめられて、一五日にもう一度同事務所に来るように言われ、その指示にもとづいて、一五日午前一一時ごろ同事務所に行つて、前記の列車転覆の謀議のなかまにいれられたということになつている。もし、一三日の正午すぎに阿部市次が赤間にそのような指示をしたということが事実ならば、その前に、列車転覆計画についてなんらかの意志決定がなされていなければならない。すくなくとも、一五日に集つて具体的な相談をするということは、そのときまでに、きめられていなければならない。

一方、八月一三日午前には、太田が松川労組から国労福島支部事務所へ行つたという事実と、岡田十良松が郡山市へ行く途中松川労組に立ちよつたという事実がある。太田は、その「自白」をはじめる前には、その日の行動について、「一三日朝松川労組の執行委員円谷玖雄が公安条例違反で逮捕されたので、九時ごろ執行委員会が開かれ、円谷の釈放要求に行くことになり、午前一一時の汽車(一一時一五分松川発下り列車のこと)で福島に行き、正午ごろ国労福島支部事務所に立ちより、地区労の渡辺能伯らと話をして昼食をとつたのち、福島市警察署に行つた」と、のべていた。

当時、捜査当局は、赤間自白の背後としての「謀議関係」を追求し、国鉄労組と東芝労組の結びつきに注目し(すでに浜崎が「自白」していたのであるから、これは当然のことである)、このふたつの労組間の幹部の動きを洗つていた。そうすると、右にのべた八月一三日の太田と岡田の動きに、捜査当局から、「連絡行動」の疑いがかけられたのも、自然の成りゆきであろう。

とくに、赤間自白では、八月一三日正午過ぎに、阿部市次が赤間に八月一五日にもう一度来るように指示したということになつているのであるから、このことと右の太田の動きとをむすびつけて考えると、太田が松川労組から「連絡」のため国労福島支部事務所に来て、阿部市次ら国労幹部となにか相談(すなわち列車転覆の謀議)をし、八月一五日にもう一度集つて具体的な打ち合わせをするということをきめ、この決定にもとづいて阿部市次が赤間に右のような指示をあたえた、という想定または疑いが自然に浮びあがつてくる(太田が円谷の釈放要求のために福島に来たと言いながら、その目的から見ると大した用事のあるはずもない国労福島支部事務所に立ちよつたという事実そのものも、この想定または疑いの一つの根拠となりうるであろう)。

しかし、一面、その日、同事務所には正午ごろ部外者である小針一郎が来て、たたみ敷きの部分(一三日の謀議がおこなわれたとされている場所)に坐り、そのすぐ前にあつた支部の事務机のところに坐つていた支部書記大橋正三と話をし二、三〇分たつたときに、おなじく部外者である小川市吉も右の支部の席に来て雑談をしたという事実がある(これらの事実が当時の捜査当局にどの程度わかつていたかは不明であるが、これについてある程度の捜査情報を捜査当局がつかんでいなかつたとは思われない)。なお、赤間自白では、その日おなじ建物のなかの会議席には伊達駅事件の関係者の打ち合わせのため、午前一〇時ごろから正午すぎまで赤間、ほか数人の者が集つていたということになつているのであるから右のたたみ敷きの部分以外の部分での「謀議」がおこなわれたと考えるのも困難な状況である(第三図面参照)。また、太田がのべている、「地区労の席で昼食をし、渡辺書記らと雑談をしたのち警察へ行つた」という、正午すぎの太田の行動についての供述も右の状況およびその後の太田の行動についての裏づけなどから見て事実らしい。そうすると、八月一三日正午すぎに「謀議」がおこなわれたと考えることはむずかしいのである。

ところで、前にのべたとおり、太田は「午前一一時一五分松川発一一時四二分福島着の汽車で来た」と言つている。もしそれが事実ならば、太田が支部事務所に着く時刻は一一時五〇分近くになり、右にのべた状況から考えて、列車転覆の謀議をする時間は、ほとんどなくなるか、あるいはあつたとしても、列車転覆という重大なことを相談するには、あまりにもみじかい時間しかなかつたことになつてしまう。

そこで、捜査官は、太田は実際は、その前八時三一分松川発八時五〇分福島着の汽車で福島に来て、午前中国労福島支部事務所で国労の幹部と列車転覆について「謀議」をしたにもかかわらず、その謀議の事実をかくために、実際よりもひと汽車おそく一一時一五分松川発の汽車で来たという嘘をついているのではないかと考えた。――これが太田にはじめの自白をさせたときの捜査官(安斎巡査部長)の想定である。

安斎巡査部長は、右の想定を太田に押しつけ、誘導し、太田が「午前一一時ごろ」と言つていた松川出発の時刻を「午前八時半ごろ」と、約二時間半くりあげて言わせた(したがつて、太田が「午前九時ごろからおこなわれた」と言つてた執行委員会には太田は出なかつたことになつた)。そして、その結果得られた太田の「自白」の内容は、「八月一三日午前八時半ごろ松川発の汽車で福島へ行き国労福島支部事務所で午前一〇時ごろから正午ごろまで、国労側の武田久、斎藤千、本田嘉博(赤旗記者)、高橋晴雄、鈴木信、本田昇、二ノ宮豊、阿部市次と列車転覆をやろうという相談をし、八月一五日にもう一度集つて具体的な『打ち合わせ』をしようということをきめて解散した」ということであつた。これが八月一三日の連絡謀議についての第一次太田自白の出発点である。なお、右の出席者や発言内容については、捜査官が、その持つていた捜査情報にもとづく想定によつて誘導した部分もあるだろうし、また太田の方から迎合的に言つた部分もあると思われる(10.16安斎調書)。

ところで、前にのべたとおり、その日、岡田が国労福島支部事務所から松川工場へ行つたという事実も、また捜査当局によつて、「連絡行動」と考えられていた。岡田が八月一三日午前一一時ごろ同支部事務所を出て午前一一時二八分福島発一一時五五分松川着の汽車で松川町に来て、午前一一時五八分に松川工場に着いたことは、松川工場警備所備付の「外来者控」(警備係員が外来者の入門時刻、用件などを記入しておく帳簿)と関係者の供述により明白な事実である。したがつて、太田が午前八時三一分松川発の汽車で福島に来たものとすれば、太田は当然国労福島支部事務所で顔を合わせているはずである。しかし、安斎巡査部長は、まだ、岡田の松川到着の時刻について、正確な知識を持つていなかつたものと思われる。右の安斎調書では、太田と岡田が同支部事務所で顔を合わせたことになつておらず、したがつて、太田による連絡と岡田による「連絡」は、無関係に、ばらばらにおこなわれたことになつている。

しかし、太田による「連絡」と岡田による「連絡」が、おなじ日に、ばらばらにおこなわれたというのはすこし不自然である。

玉川警視は右にのべた事実関係を明確に意識していた。そこで同警視は、一〇一七日に太田を取り調べ、この二つの連絡行動をむすびつけた。すなわち、太田10.17玉川調書の内容はつぎのとおりである(なお玉川警視は、この調書で、太田だけでなく、太田と佐藤一がいつしよに行つたことにしたが、これが虚偽であることは、第五章第二節で論証したとおりである)。

八月一三日午前八時半ごろの汽車で太田と佐藤一が福島に行き、国労福島支部事務所で、午前一〇時ごろから、武田ほか八名の国鉄側の者と同事務所のたたみ敷きの部分に車座になり、列車転覆の相談をはじめた。岡田は、太田、佐藤一とともにたたみ敷きの部分の南側に坐り、その相談の途中で、午前一〇時半すぎごろ「一一時の上り列車であんたの方の会社に行つて杉浦さんに会議のことをよく話しておく」と太田に言つて、出て行つた

つまり、右の玉川調書では、前記の安斎調書で、ばらばらだつた太田による「連絡」と岡田による「連絡」が自然にむすびつけられ、

東芝―(太田佐藤一)→国鉄(謀議)→(岡田)→東芝という「連絡」のすじみちができあがつたのである。このようにして、八月一三日連絡謀議についての第一次太田自白が完成された。

ところが、一〇月二四日、松川工場から諏訪メモとともに太田の八月一三日の不定時入出門票が押収された。不定時入出門票というのは、松川工場の従業員が正規の出退勤の時刻以外の時刻(すなわち不定時)に入出門する場合に、工場入口の警備所の係員がその入出門の時刻を記入し、その係員と所属長が押印して保管しておく伝票である。そして、この不定時入出門票によつて太田の八月一三日の出門の時刻が午前一一時であることが証明された。つまり、太田が、その自白前に言つていた「午前一一時ごろ」という松川出発の時刻が正しかつたことが、この疑問の余地のない物証によつて証明されたことになる。したがつて、はじめにのべた捜査官の想定、すなわち、「太田は、実際は、八時三一分松川発の汽車で来て、午前中国労福島支部事務所で列車転覆の謀議をしたのに、この謀議の事実をかくすため、ひと汽車おそく午前一一時一五分松川発の汽車で来たという嘘をついているのであろう」という想定は、これで完全につぶれ、捜査官が嘘だと思つていた太田の自白前の供述が正しかつたことがはつきりしたのである(太田は八月一三日朝松川労組執行委員円谷玖雄が逮捕され、午前九時ごろから執行委員会がおこなわれ、太田が警察に釈放要求に行くことになつて午前一一時ごろ松川工場を出たということを正しく記憶していたのである。つまり、八月一三日の松川出発の時刻については、太田は右のきわめて特異かつ具体的な一連の事実とむすびついた、はつきりした記憶を持つていたのである。したがつて、捜査官の前記の想定にもとづく強制と誘導がなければ、太田がその出発時刻を二時間半もくりあげて、ひと汽車前の時刻を言い、しかも、出発前の執行委員会についての記憶を突然喪失するというようなことは、普通には考えられないことなのである)。

そして、前記の10.17玉川調書によつてつくりあげられた

東芝→(太田佐藤一)→国鉄(謀議)―(岡田)→東芝という連絡のすじみちもまた、右の不定時入出門票によつて完全につぶれたことになる。なぜならば、太田が八月一三日午前一一時に松川工場を出門して(不定時入出門票)、午前一一時一五分松川発一一時四二分福島着の汽車で福島へ行き、一方、岡田が同日午前一一時二八分福島発一一時五五分松川着の汽車で松川に来て、午前一一時五八分(外来者控)に松川工場に入門したことが右の疑問の余地のない物証によつて証明された以上、太田と岡田は、東北本線福島松川間ですれちがつたことはあきらかであり、したがつて、太田と岡田がその日国労福島支部事務所で顔を合わせるということは絶対にありえないことになるからである。

しかも、右の10.17玉川調書の岡田についての供述(それは、右に説明したとおり、絶対にありえないことについての供述である)は、ただ単に大勢の人のなかに岡田がいたというような抽象的なものではない。「謀議の席で岡田は南側に太田、佐藤一といつしよに坐り、謀議の途中で、一〇時半すぎごろ『一一時の上り列車であんたの方の社会に行つて杉浦さんに会い、この会議のことをよく話しておく』と太田に言つて出て行つた」という具体的なものである。そして、それが具体的であればあるほど、この場合、錯覚であつたとか、記憶ちがいであつたというようなごまかしはきかなくなる。すなわち、「太田が八時三一分松川発の汽車で福島に来たならば、国労福島支部事務所の『謀議』の席で岡田に出合つたはずである。そうだとすると、太田による連絡と岡田による連絡がばらばらでなくなり、自然に結びつく」という前記の玉川警視の想定にもとずく強制誘導と、これに調子を合わせた太田の迎合がなければ、右のような虚偽架空でありながら具体的な供述は生まれない。それは右のようにして作り出された虚偽架空の作文なのである。太田の真実の記憶に反して、その松川出発の時刻を二時間半もくりあげさせ、「八時半ごろ」と言わせたからこそ、このような太田と岡田の架空の出会いの想定が可能になつたのであり、また、太田が玉川警視の心理的強制誘導に屈服し、その想定に調子を合わせて供述したからこそ、この架空の出会いについて、右のようなきわめて具体的な供述ができあがつたのである。

右に見たように、一〇月二四日に押収された諏訪メモと不定時入出門票は、太田自白にとつてまことに致命的なものであつた。これによつて八月一三日と一五日の国労福島支部事務所での「連絡謀議」についての捜査官の想定は完全につぶれたのである。だから、捜査官は、すくなくともこの時点で太田自白も、またそのもとになつた赤間自白もあきらめ、原告らを嫌疑なしとして釈放すべきであつた。ところが、捜査官は、これでもなおあきらめないで、この点についても、また、太田に「自白」のやりなおしをさせた。それがつぎにのべる八月一三日「連絡謀議」についての第二次太田自白である。

右の不定時入出門票が押収された一〇月二四日に安斎巡査部長は、ふたたび太田を取り調べた。そして、右にのべたように、真実の太田の記憶よりも二時間半くりあげさせて「八時半ごろ」と言わせていた、太田の松川出発の時刻を、今度は二時間半くりさげさせて、「午前一一時ごろ」と言わせた。つまり不定時入出門票に合わせて、もとにもどしたのである。したがつて、岡田は、太田の出た「謀議」の席にはいなかつたことになつた。これが第二次太田自白である。

ところで、もともと、捜査官は、八月一三日正午すぎの国労福島支部事務所の状況から見て、正午すぎの「謀議」を考えることがむずかしく、太田が自白前に言つていたように、午前一一時一五分松川発の汽車で福島に来たとすれば、謀議の時間がほとんどなくなるか、またはあつたとしても、列車転覆という重大な相談をするにはあまりにみじかくなつてしまうところから、太田が午前一一時一五分松川発の汽車で福島に来たと言つているのは、午前中の「謀議」の事実をかくすための嘘で、ほんとうは、それよりひと汽車早い午前八時三一分松川発の汽車で来て、午前中「謀議」をしたのであろう、という想定で、太田が正しい記憶にもとづいてのべていた「午前一一時ごろ」という松川出発の時刻を、二時間半くりあげさせて「午前八時半ごろ」と言わせ、そのうえ、「国労事務所の謀議の席で岡田が、太田、佐藤一のとなりに坐り、謀議の途中で、午前一〇時半すぎに、これから松川へ行つて杉浦にこの謀議のことをよく話しておくと太田に言つて、出て行つた」という、まつたくありえない作り話まで、言わせていたのである。それを、今度は、その出発時刻をもう一度二時間半くりさげさせて、「午前一一時ごろ」にもどして言わせたのである。捜査官のはじめの考えどおりに「謀議」の時間は、ほとんどなくなるか、またはあつたとしても、列車転覆という重大な相談をするにはあまりにもみじかい時間になつてしまうはずである。そして事実そのとおりになつたのである。

第一次太田自白では「二時間ぐらい」とされていた謀議の時間が、第二次太田自白では、いくらかの変化はあつたものの、結局「一〇分か一五分」とされてしまつたのは、そのためである。「一〇分か一五分」というのは、太田が前述の午前一一時一五分松川発の汽車に乗り、午前一一時四二分に福島駅でおりて、同駅から歩いて国労福島支部事務所に着いたと思われる時刻(午前一一時五〇分近く)と、部外者である小針一郎が、その前日逮捕された国労執行委員渡辺郁造の消息を聞くために、支部事務所に立ちより、たたみ敷きの部分(謀議がおこなわれたとされている場所)に坐つて、そのすぐ前にあつた支部の席にいた大橋正三書記に話しかけた時刻(一二時前後ごろ)とのあいだに見いだすことができるぎりぎりの間隔である(第三章第四節参照)。

このような供述変更のしかたそのものが、すでに常識を超えたでたらめなのであり、これを信用せよ、というのは無理であろう。

八月一三日正午ごろの国労福島支部事務所の状況についての証拠のすべてから見て、太田自白のなかでのべられているような「謀議」が存在しなかつたことが証明されることは、第三章第三節でわくしく論証したとおりである。八月一三日「連絡謀議」についての太田自白もまた、はじめからおわりまで、捜査官の、右にのべた想定にもとづく、強制誘導とこれに対する太田の迎合により作り出された虚偽架空の作文であつたのである。

四、八月一三日の岡田による「連絡謀議」

三でのべたとおり、岡田は、八月一三日午前一一時二八分福島発の汽車で松川へ来て、午前一一時五八分に松川工場にはいつた。岡田は、郡山市へ行く途中、松川労組の人員整理反対闘争を応援するために立ちよつたのであり、午後一時四〇分からおこなわれた同労組の青年部常任委員会に出て挨拶した(青年部会議議事録甲25P372)。そして、岡田の右の行動もまた捜査官によつて「連絡行動」と考えられ、それが、一旦、太田10.17玉川調書で、太田の「連絡行動」とむすびつけられたが、不定時入出門票の出現によりその想定が、つぶれてしまつたことは、三でのべたとおりである。

岡田が国労から列車転覆計画について「連絡」に来た、という右の想定がはじめて具体化されたのは、大内10.5玉川調書(甲48P314)、10.6笛吹調書(甲14P26)であつて、それによれば、「午後一時頃から青年部の委員会があり、これに岡田が出席して挨拶し、午後二時半頃おわり解散したが、岡田、杉浦、太田、大内、佐藤(代)、菊地、小林、浜崎があとに残り、岡田が一六日夜列車転覆をやるから協力してくれと言い、杉浦が、よかろうと返事して話がまとまつた」というである。

しかし、右の大内の供述は、まつたく事実に反するものである。なぜならば、大内と二階堂武夫は、その日右の青年部常任委員会がおわらないうちに、当時公安条例違反の容疑で逮捕されて福島市署にいた執行委員円谷玖雄と面会するために、午後二時二二分松川発の汽車で福島へ行つたのが事実だからである。この事実は証拠上明白で、被告も認めていることである。したがつて、右の大内自白もまた虚偽架空である。しかも、大内は、10.6笛吹調書では、右の虚偽架空の「連絡謀議」について、その出席者の席順をしめす図面まで画いているのである(甲14P31)。なお、右の大内自白について、「大内が二階堂武夫をかばうために、右のような嘘を言つた」という見解があるが、かりに大内が二階堂武夫をかばおうとしたとしても、なにもそのために右のような虚偽架空の「連絡謀議」を創作し、その図面まで画く必要はないであろう。

大内11.5笛吹調書では、右の供述は取り消され、「一三日、午後〇時四〇分頃、組合事務所の土間で、杉浦、佐藤(代)、武夫、岡田の四名がなにか話をしていて、小林、菊地、浜崎、大内は同事務所会議室で雑談していたところ、まもなく武夫が会議室に来て、『このたび、国鉄と東芝とで列車脱線をやるからお前達も協力してくれ。岡田がその事で今日連絡に来て今その話をきいたのだ』と言つたので、一同はこれを承諾した」ということに変つた。

ところが、右の供述は、岡田の「連絡行動」についての伝聞供述であるから証拠とすることができないのではないか、という疑問が検察官のあいだに生まれ、岡田の被疑者勾留の期限切れ(一一月一二日)の前後に、このことが議論された(当審での安西光雄証言)。ところが、右の法律上の議論にあたかも呼応するかのように、大内11.17玉川調書が作成された。その記載内容はつぎのとおりである。

私が飯食ひから帰つて間もなく、岡田さんが杉浦さんに対し「今度列車脱線をやるから協力してくれ」と言ふ意味の事を話をして居るのをその側で聞えておりました。其の時の机を囲んで話をした席順を申し上げますと南側の腰かけの東の方に岡田、西の方に杉浦、机の北側の東の方に二階堂、西の方に佐藤代治が腰をかけて話をしており、私は直く側の机で、ビラの整理をしておつたので良く耳に入つたのであります。杉浦さんは「良いだらう」と返事をした事も記憶にあります。(甲48P329)つまり、大内が、二階堂武夫から間接に岡田の話の内容を聞いたという供述が右の11.17玉川調書では、岡田、杉浦、武夫、佐藤(代)らのあいだの話を、大内がそのそばにいて、直接自分の耳で、聞いた、という供述に変つたのである。なるほど大内の供述の内容を右のように変えれば、大内は岡田の「連絡行動」を直接見聞したことになり、武夫からの間接の「伝聞」ではなくなる。すなわち、検察官のあいだに右のような法律上の議論がおこると、それにしたがつて、大内ののべていた事実そのものが変つてしまつたのである。あまりにうまくできすぎているであろう。

要するに、それは、大内自白が、捜査官のそのときどきのおもわくにしたがつて、どのようにでも自由自在に変えられる虚偽架空の作文であつたことをはつきり証明するものである(このほか、小林らも右の「謀議」についてのべているが、それは、右の大内自白と同様、いろいろつじつまを合わせて言わせたものにすぎない。これらの自白についての当裁判所の判断は差戻後第二審判決のそれとおなじである)。

五、八月一六日の松川労組事務所での「謀議」

八月一六日の加藤謙三による「連絡謀議」も同様である。八月一六日に、加藤が松川の組合大会に出席し、午前八時半ごろ大会がおわつたのち、八坂寮組合室でおこなわれたその日の組合大会についての懇談会(批判会)に出て、午後九時四三分松川発の汽車で福島へ帰つたという事実がある。そして、これもまた捜査当局によつて「連絡行動」と考えられた。

しかし、右の組合大会がおわつたのち八坂寮でおこなわれたのは、「懇談会」だけではない。杉浦が執行委員会を招集し、阿部明治、斎藤正らの執行委員が、同寮真の間で杉浦と話し合つているうちに、八時五〇ごろ、八坂寮管理人木村ユキヨから、ここで組合の会合をやられては困ると注意されたので、それでは明日にしようということになつて解散したのである(阿部明治10.11吉良調書甲49P182等)。そして、右加藤による「連絡謀議」は、右の「執行委員会」と「懇談会」のあいだの、五分間ぐらいの間げきにおこなわれたというのが、太田自白および大内自白にもとづく検察官の主張である。

しかし、もし木村ユキヨが右のような注意をしなければ、執行委員会がそのまま続けられたのである。そうすれば、加藤は連絡謀議をする機会を失つたはずである(加藤が乗つた汽車は午後九時四三分松川発の終列車で、翌朝三時一四分まで福島行の汽車はない)。また、もし、加藤による「連絡謀議」が予定されていたならば、杉浦が、翌日に延期してもよいような執行委員会を招集するとも思われない。そんなことをしていれば、「連絡謀議」の機会がなくなつてしまうおそれがあるからである。

また、加藤が出席した「懇談会」は、加藤、佐藤一、小尾史子、村瀬武士らが組合大会がおわつたのち、組合事務室にいたときに、加藤が「時間があまりないが、批判会をやろう」と言い出して、ほかの者がこれに賛成して開かれたものである(加藤11.10辻調書甲14P236)。小尾、村瀬は民青団の者で、その日一日中加藤と行動をともにしていた。批判会をやれば、小尾、村瀬も出席するにきまつている。もし、加藤が杉浦らとの「連絡謀議」をやろうとしていて、しかも時間のないのを気にしていたならば小尾、村瀬が出席するにきまつている批判会をやろうなどと自分から言い出すとは思われない(なお、小尾と村瀬は捜査段階で取り調べられたが、この点については供述がない)。

右の執行委員会と懇談会のあいだに検察官の主張する「五分位」の間げきを見出すことは、証拠上困難であるだけでなく(最高裁差戻判決と差戻後第二審判決参照)、右にのべた加藤と杉浦の行動そのものが、右の組合大会終了後の「連絡謀議」という想定と矛盾する。

この不自然さは、だれにでもわかることである。だからこそ、太田10.16安斎調書(甲48P260)、10.17玉川調書(甲48P264)では、加藤の「連絡謀議」は、「午前一〇時頃八坂寮の医務室のとなりの四畳半に、杉浦、佐藤一、太田、佐藤(代)の四人が集り、加藤から四一二列車の前の貨物列車が運休だから時間が十二分にあることなどを知らせ打ち合わせた」ということになつているのである。

しかし、その日、加藤の松川工場に着いた時刻が一二時であつたことは外来者控(工場入口の警備所に備えつけて、外来者の氏名、用件、入門時刻を記入した帳簿―甲25P378)の記載によつて証明されている事実であり、しかも、右の時刻(午前一〇時以後)には、杉浦、太田らは八坂寮の大広間でおこなわれた組合の拡大闘争委員会に出席していたことが、関係者の供述により明白なのであるから右の加藤による「連絡謀議」の供述もまた虚偽架空であることは、あきらかである。

そして前記10.17笛吹調書からは、右の供述は取り消され、前記のとおり、加藤による「連絡謀議」は、杉浦の招集した執行委員会と加藤が言い出してはじめられた懇談会のあいだに偶然生じたとされる「五分間位の間げき」(実際はそのような間げきを認めるのは、証拠上困難である)におこなわれた、と変更された。そして、10.18笛吹調書(甲13P170)にはその供述変更の理由がつきのとおり説明されている。

前に警察の方の取調の際、八月一六日午前十時から八坂寮医務室隣りの四畳半の間で会合があつた様に申しましたが、夫は記憶違いで昨日検事さんに申上げました如く午前十時から八坂寮大広間で各斗委員会(註、拡斗委員会のあやまり)のあつたのが本当であります。十六日の夜、寮組合室で加藤を囲んで脱線転覆の計画を相談した事と混同して、午前十時頃から会合があつた様に勘違いして、間違つた事を警察の人に申上げた次第です。(甲13P170)

しかし、右の供述変更の理甲は、あまりにも不自然である。列車転覆の謀議と組合の拡大斗争委員会とでは、性質のちがいすぎるできごとである。もし、その日、加藤による「連絡謀議」がほんとうにおこなわれ、太田が真実の記憶にもとづいて供述したのであるならば、列車転覆の謀議と、組合の拡大斗争委員会とを「混同」し、しかも、「医務室のとなりの四畳半の間で、午前一〇時ごろから謀議をした」というような、まつたくありもしないことを言い出すことは、ほとんど考えられないことである。「加藤による連絡謀議」などということは、はじめからなかつたのであり、八月一三日と一五日の「連絡謀議」についての太田自白と同様、虚偽架空であつたと考えざるをえない(このことについてのべている大内自白が信用できないことは、すでに説明したとおりである)。

なお、太田自白その他東芝関係者の自白では、右の「加藤による連絡謀議」のあとで、加藤の連絡事項にもとづき、東芝側だけの「謀議」がおこなわれたことになつているが、前述のとおり赤間自白の虚偽架空なことが説明され、しかも、ほかのすべての「謀議」が右に見たように虚偽架空であることがわかつたのであるから、もはや右の「謀議」だけを独立に取りあげて問題にする必要もない。これについての当裁判所の判断は、差戻後第二審判決のそれと大体おなじであり、要するに、その「謀議」なるものの実体は、「謀議」ではなく、加藤らが帰つたあとに残つた東芝側の原告ら数人の、その日の組合大会などについての話合いのつづきにすぎなかつたのである。

第四、むすび

以上、松川事件の実行行為の根幹である赤間自白と、謀議関係の根幹である太田自白を主として取りあげ、それが全面的に虚偽架空であることを論証した。そして、赤間自白と太田自白が右のようなものであれば、松川事件の被疑事実も公訴事実も全体としてつぶれてしまうのであつて、そのほかの自白もまた、証拠の全体から見て、これとおなじ性質のものと考えられる(とくに、第四章転覆謝礼金自白参照)。これらの自白についての当裁判所の判断は、差戻後第二審判決のそれとおなじである。

要するに、これらの自白はすべて右に見たように、赤間自白を根幹とし、そのときどきの証拠の状態によつて動いていつた捜査官の想定にもとづく強制誘導とこれに対する自白者の迎合によつて作り出された虚偽架空の作文なのであつて、原告らはすべて無実である(なお、本理由中で具体的に取りあげて論ずることをしなかつたバール・スパナの盗み出しとか、武夫と園子によるアリバイ工作とかいうことは、このような作文のなかの一節にすぎない)。

捜査官と公訴官は、被疑事実および公訴事実と根本的に矛盾する本田昇のアリバイ(第六章)、佐藤一のアリバイ(第二章)、その他第二章以来取りあげて来た諸事実について、それぞれのその他第二章以来取りあげて来た諸事実について、それぞれの章でしめした明白な証拠を手としながら、これを無視し、右のようにして作られた虚偽架空の自白を根拠として、捜査を継続し、公訴を提起し、追行した。このような捜査、公訴提起、追行が、全体として、違法かつすくなくとも過失あるものであつたことは、あきらかである。

第二節  検察官の公訴追行上の過失

第一、序説

一、検察官の真実義務

前節で、本件の捜査、公訴提起、追行が、一体として、違法かつすくなくとも過失あるものであつたことをあきらかにした。そして、この一体としての違法行為は、公訴が維持されているかぎり、すなわち無罪判決が確定するか、または公訴が取り消されないかぎり、継続しているものである(したがつて、本件の場合、時効の起算点は、無罪判決の確定のときであるから、被告の主張する時効の抗弁は理由がないのである)。

ところで、公訴提起後の検察官の個々の訴訟行為は、これと区別して考えなければならない。公訴提起後の検察官の訴訟行為(主として、その主張立証)は、もちろん検察官の自由裁量行為である。しかし、自由裁量だから、なにをしても、または、しなくてもよいということではない。そこには、検察官に捜査、公訴の権限があたえられている目的に由来する限界があることは、もちろんである。

検察官の職務は、公益の代表者として法の正当な適用を裁判所に請求することにある。検察官の法廷での主張立証は、この目的にそうものでなければならない。検察官の法廷での主張立証の行為(作為、不作為をふくむ)がその目的に反するものであるならば、それは、右にのべた自由裁量の限界をこえた違法な行為である(刑事訴訟法第一条、検察庁法第四条)。

「法の正当な適用を裁判所に請求する」ためには、なによりもまず法廷に真実を顕出しなければならない。そのためには誠実かつ公正な主張立証をおこなわなければならない。これが公益の代表者である検察官の職務である。

その目的を達するために、検察官には国費で、しかも強制的に証拠を集める権限があたえられているのである。だからその集めた証拠のうち事件の本すじと関係して真実(被告人に対して不利益であると利益であるとを問わない)の発見に役立つ可能性のある証拠(公訴事実と合致する証拠も、これと矛盾する証拠も含む)はすべて法廷に顕出すべきである。これは、検察官の真実義務とも言うべきもので、その職責上当然のことである。もちろん証拠の提出には刑事訴訟法上の制限があり、相手方の同意を必要とする証拠もあるが、すくなくとも裁判所および相手方にそれが存在することを知らせ、これを開示し、相手方の同意があればこれを提出する用意があることをあきらかにすべきである。

二、検察官と被告の見解

この点について、本件で問題となつている刑事事件の検察官と本件被告がのべている見解には明白な誤りがあつて、その誤つた見解にもとづく主張立証が、刑事事件第一、二審の審理、判断を誤らせた大きな原因となつていると思われるので、まずこれを明らかにしておく必要がある。

差戻後第二審の検察官は、つぎのように主張した。

検審官が手持の証拠物を総て、法廷に顕出する必要のないことは現行法上明らかであり、殊に所有者等の秘密に属する事項の記載されている物の如きは、必要性の乏しいのにみだりに法廷に顕出して内容を公開することは避けねばならぬところであつて、諏訪メモの如きも、特に取調を求める必要が生じない限り、法廷に顕出すべきものではなかつたのである。(甲42P247差戻後第二審検察官意見要旨)

現行刑事訴訟法に、検察官の証拠の開示、提出の義務が規定されていないことは、検察官の言うとおりである。また所有者の秘密に属するようなことをその必要もないのにみだりに法廷に顕出して公開すべきでないこととも、そのとおりである。しかし、審理に必要であるかないかの判断は、だれがするのだろうか。右の検察官の主張から見れば、その判断はもつぱら検察官がするということになるであろう。

この見解をもつとはつきりしめているのは、つぎにかかげる差戻後の第二審第二回公判廷での検察官の陳述である。

オオツカ弁護人

それからですね、この本件について、まあ、十年前の押収捜さくとまた再捜さくをやつておるようですが、とにかく今までの間の本件の捜査について全押収目録、ないしは押収でない任意提出の場合の領置も含めてですね、そういう全記録を検察側が今日まで公開しない理由はどこにあるんです。

高橋検察官

これは検察官はその前からもお話しておりますように、裁判所に証拠申請するものについては相手方にえつ覧させるの機会を与える義務がありますが、そうでないものはえつ覧させる義務がない、そういう点からみまして、これは証拠物でないのでありまして、えつ覧させる必要はないと、こういうふうに考えておるからであります。

オオツカ弁護人

そうですか。それからあなたは一昨日のちん述で真実の発見に役立つようなのは出すようにしたいということをいわれましたがこの真実の発見に役立つか否かはどなたがお決めになるんでしようか。

高橋検察官

それは、検察官手持ちの証拠につきましては検察官の判断にまかせられておるというふうに考えております。

オオツカ弁護人

検察官がですね。

高橋検察官

はあ、したがつて検察官が良心的に考えてですね、裁判所に提出すべきものは提出する、そのために、今、刑訴三百条のような規定があるわけでございます。刑訴三百条に、該当するかどうか、これはやはり検察官の判断にゆだねられておるとそういうわけであります。

オオツカ弁護人

検察官がいうところの真実発見というのは、すべて検察官の良心にかけられておると、そういうことになるわけですね。

高橋検察官

そうです。(甲31P139140)

つまり、検察官の手持ちの証拠のうち検察官が良心的に考えて、審理に必要、すなわち真実発見に役立つと判断した証拠以外は、開示する義務も法廷に顕出する義務もないということである。この見解の当然の帰結として、検察官が真実発見に役立たないと判断した証拠は、弁護人はもちろん、裁判所も、見ることができないだけでなく、その存在さえも知ることができないという結果となる(刑事事件で問題になつている諏訪メモ、郡山市警察署の来訪者芳名簿などはそのもつとも顕著な実例である)。

三、検察官と被告の見解の誤り

この見解は、つぎの諸点であきらかにまちがつているのである。

第一に、検察官の手持ち証拠は、その職務権限にもとづいて、国費を使つて集められたものである。これについて検察官が独占的判断権を持ち、検察官の判断からはずれた証拠は裁判所は見ることも知ることもできないというのは、まことに不合理である。

第二に、検察官の証拠に対する判断そのものがつねに正しいとはかぎらない、と言うことである。もともと刑事訴訟という制度そのものが、検察官の判断がつねに正しいとはかぎらないということを前提として、その判断が正しいかどうかを確かめることを目的としているものなのである。そのためにこそ、刑事訴訟制度においては、その判断そのものを公開の法廷での批判にさらし、これについて議論をつくし、それもとづいて裁判所が最終判断をし、これに対してはさらに上訴もできることになつているのである。検察官の手持ち証拠のうち、検察官が真実の発見に役立たないと判断した証拠は開示も提出もする義務がないということは、その検察官の判断そのものの当否についての公開の法廷での批判を拒むことになる(開示も提出もされないものについては批判する方法がない)。そうすると、この点にかんするかぎり、公開の法廷での刑事訴訟という手続はまつたく無意味なものになつてしまうのである。

検察官の、証拠に対する判断についての公開の法廷での批判を拒否するということは、検察官の判断がつねに絶対に正しいということを前提としなければ、言えないことである。そして、検察官の判断がつねに絶対に正しいということが言えるならば、刑事訴訟という手続はまつたく無用に帰する。それは、検察官に神のごとき無謬性を仮定しなければ成り立たない見解なのであり、刑事訴訟そのものの否定に通ずるのである。検察官の判断がつねに正しいとはかぎらない、つまりまちがつているかもしれないからこそ、刑事訴訟という慎重な手続が必要なのである。

右にかかげた、検察官の見解のように検察官の手持ち証拠が、「真実の発見に役立つか否かの判断」がいつさい「検察官の判断にまかされていて」、その判断そのものの当否についてはだれも批判できない(開示も提出もされなければ、批判のしようがない)ということになれば検察官は証拠の独裁者になつてしまうのである。検察官が「良心的に考えて真実の発見に役立つと判断する」と、言う場合の「真実」というのは、検察官が考える真実ということである。具体的に言えば、それは公訴事実である。検察官は公訴事実を真実と考えて公訴を提起するのであるから、それは当然のことである。したがつて、右の見解が正ければ、検察官の手持ち証拠のうち、公訴事実に合致する証拠(自白など)は、検察官の考える「真実」の発見に役立つから、法廷に提出する必要があるが、これに合致しない証拠(アリバイなどの証拠)は、これを手持ちしていても、それは真実の発見に役立たないから、開示も提出もする必要はない、つまりこれらについては、知らぬふりをして黙つていてよいということになつてしまう。そのもつともはつきりした実例は、第二章第二節(三)(四)でのべた西肇の供述調書と第五章第三節第二でのべた宍戸金一の供述調書である。これらの供述は(これを信用するしかないかはべつとして)それぞれ、佐藤一と斎藤千のアリバイについての明確かつ具体的な供述である。そして、西や宍戸が右のような供述をした、という事実は、当時の被告人も弁護人も知らなかつたことであり、それを録取した検察官だけが知つていた事実である。それにもかかわらず、検察官は、右の供述調書を開示も提出もしなかつた。検察官はこれらの供述調書を「真実」の発見に役立たない、つまり信用できないと判断していたのであろう。しかし、その信用できないという判断は検察官のひとりきめなのであつて、その判断そのものの当否は、ほかのだれにも、わからなかつたことであり、もちろんこれについては法廷ではなんの議論もされることなく、これらの証拠は第一、二審を通して、いわば闇から闇にほうむられていたのである。

もともと、公訴事実(すなわち検察官が真実と考える事実)が、はたして真実であるかどうかということこそが刑事裁判の審理と判断の対象なのである。つまり、検察官の証拠に対する判断の当否そのものがそこで問われているのである。それなのに、検察官が「真実」(すなわち検察官の考える真実、つまり、公訴事実である)の発見に役立つと判断する証拠だけを開示すればよく、そのほかの証拠(つまり検察官が真実でない、または、関係がないと判断した証拠)は開示も提出もする義務がない、この判断はいつさい検察官にまかされていて、だれの批判もゆるさない(開示も提出もされなければだれも批判できない)、と言うのは、まことに矛盾もはなはだしいことであり刑事裁判そのものを否定することにはほかならない。右にのべた西や宍戸の供述調書が刑事事件の第一、二審で闇から闇にほうむられていたのは検察官のこのまちがつた見解にもとづくものである。公訴事実に合致する証拠も、これと矛盾する証拠も、検察官がこれを信用するしないにかかわらず、法廷に顕出しなければ検察官の判断そのものの当否はわからないのであり、そうしなければ公正な刑事裁判は、成り立たないのである(証拠法上、提出が制限されている証拠は、すくなくとも相手方にこれを開示してその同意を求めるべきである)。

第三に、事実認定の最終責任を負つているのは裁判所であつて検察官ではないということである。裁判所が証拠にもとづいて事実を認定しなければならないのである。そして、裁判所が正しい事実認定をするためには、被告人に不利な証拠も有利な証拠も(正確に言えば、公訴事実に合致する証拠も、これと矛盾する証拠)も総体的に見なければならない。もし、検察官がその手持ち証拠のうち、公訴事実に合致する証拠だけを真実の証拠として開示、提出し、これと合致しない証拠は真実でない証拠として開示も提出もしなければ、裁判所は、検察官が真実でないと判断した証拠は、見ることができないのはもちろん、その存在さえも知ることができないのである(右にのべた宍戸、西の供述調書、あとでのべる諏訪メモ、来訪者芳名簿などはその実例である)。つまり、裁判所は、これらの証拠については、まつたく目かくしをさせられ、これが真実でないという検察官の判断を事実上うのみにさせられたまま事実認定をしなければならないことになる。このようなことは、裁判所が事実認定の最終責任を負つていることとまつたく矛盾するのである。

この点については、被告人に有利な事実(たとえばアリバイ)は、弁護人または被告人の方で、主張立証すべきで、検察官の方からは、なにも言う必要がないと言う見解があるかもしれないが、それは実体的真実の発見という刑事裁判の目的と、法廷に真実を顕出すべき検察官の職務を無視する見解である。弁護人の事実調査や証拠集めの能力は、検察官のそれとは比較にならない。また、アリバイのような具体的事実は、被告人自身が気づかないでいることもあるし、また忘れていることもある(たとえば、あとでのべるとおり斎藤千は八月一三日昼、宍戸金一とともに郡山市警察署に差入れに行つたことを忘れていた)。被告人や弁護人が気づかないでいれば、検察官がそれについての証拠を手持ちしていても黙つて知らぬふりをしているというような、不誠実、不公正な訴訟追行は、検察官の職務上ゆるされないことである。

要するに、「検察官が良心的に考えて真実発見に役立つと判断する証拠だけを開示、提出すればよい、そうでない証拠は開示も提出もする必要はない」という検察官と被告の見解は、その検察官の判断そのものに対する公開の法廷での批判を拒むことであり、結局、「検察官の証拠に対する判断は、つねに正しいのだから信頼せよ、これについては、だれも口を出す必要はないし、また検察官が『真実』の発見に役立たないと判断した証拠は、裁判所も弁護人もこれを見る必要もなければ、その存在さえも知る必要もない」ということに帰着する(現に、次項以下でのべる諏訪メモ、来訪者芳名簿などの重要証拠について、第一、二審裁判所は、その存在さえも知らされていなかつた)。つまり、それは、「知らしむべからず依らしむべし」ということなのであつて、しかも、その「知らしめない」相手には、事実認定の最終責任を負う裁判所までがはいつているのである。それは、言いかえれば、検察官が証拠の独裁者になることであり、公開の法廷でいつさいの証拠についてのつくすべき議論をつくしたうえで裁判所が事実を認定するという、刑事裁判の根本を否定することである。このような被告、検察官の見解がまちがつていることは明白である。

四、本節の課題

以上のべたところにより検察官は、その手持ち証拠のうち、結果に影響を及ぼす可能性のあるものは、被告人に不利な形の証拠もまた有利な形の証拠も(すなわち公訴事実に合致する証拠もこれと矛盾する証拠も)、検察官がそれを信用するしないにかかわらず、法廷に顕出する義務があると解すべきである。検察官が公訴事実と矛盾する形の証拠を手持ちしていながら、これを法廷に顕出せず、黙つて知らぬふりをしているということは公正かつ誠実な主張立証とは言えないのであり、その真実義務にそむくことは、あきらかである。

以下、本節でのべることは、右の意味での検察官の公訴追行上の義務違反の有無とその審理におよぼした影響である。

なお、第一節でのべた捜査、公訴提起、追行の一体としての違法性および過失と、本節でのべる公訴追行のしかたについての違法性および過失は、競合の関係にあるものと見るべきである。たとえて言えば、過失ある行為によつて人に傷害をあたえた者が、事後の適切な応急措置をおこたることによつて、損害を拡大した場台と同様である。

第二、諏訪メモ、田中メモと西肇10.29良吉調書

諏訪メモと田中メモが、佐藤一の「八月一五日の連絡謀議」のアリバイについての重要な証拠であることは、第二章第二ないし第四節でくわしくのべたとおりである。

八月一五日午前午後にわたり、松川工場の工場長室でおこなわれた団交の経過は、「佐藤一は、午前一一時一五分松川発の汽車に間にあう時刻に団交の場から出て行つたかどうか」という、佐藤一アリバイのきめ手とも言うべき問題点と関連して、第一審以来はげしくあらそわれてきた。

そして、この点について、検察官側から鷲見誡三(工場長)、弁護人側から紺野三郎、斎藤正、阿部明治、遊佐寅三(以上いずれも松川労組執行委員)が証人として申請され、第一審法廷に喚問された。鷲見は、「午前の団交は一〇時半ごろはじまり、はじめに杉浦が一五分間ぐらい発言し、それにつづいて佐藤一が発言しようとしたので、あなたはだれか、と聞いたところ、鶴見工場の佐藤一で、争議の応援に来ている、ということだつたので、結局、労組から委任状を出すことにしてその発言を許したところ、佐藤一は、巻線係の人員整理が不当である、という趣旨の発言を一〇分間ぐらいした。その後は佐藤一は発言しなかつたので、いたのかどうかわからない」という趣旨の証言をしたが(鷲見の供述がこの趣旨であることは、捜査段階の10.28辻調書以来一貫している。第二章第四節(二))、検察官から「居つづけたわけではないのですね」と問いかえされて、「佐藤一は最初激烈な言葉をかわしておりましたが、そのうちにいなくなつたと思つております。もつともそのうち同君だけでなく八、九人の者がいつのまにかいなくなつたように思つております」と答えた。紺野、斎藤、阿部、遊佐らは、「佐藤一は午前の団交の最後までいたように思う」と証言した。

そして、第一、二審では、右の鷲見の証言が採用され、紺野、斎藤、阿部、遊佐らの記憶がたしかでないことが指摘され、「以上を要するに、佐藤一が八月十五日の団交の午前中最後までそこに居たかどうについては鷲見誡三の証言により之を消極に認めるのが相当である。なお佐藤一がその団交の席から去つたのは午前十一時十五分頃松川発の下り列車に間に合う時刻であつたと認めることができる」(第二審判決乙2P25612562)と判断された。

当時、松川工場は、人員整理反対斗争のさなかにあり、ほとんど毎日のように団交を要求する交渉、団交、職場交渉などの労使間の交渉がおこなわれ、また、労組の執行委員会、組合大会、職場会議、青年部委員会などがひらかれ、非常にごたごたしていた。そして、執行委員会は、毎日いそがしくこれらの会合に出席して、人員整理についての人の発言を聞いたり、また自分が発言したりしていたのである。半年以上たつたのち、どの会合にだれがいつまで出ていたかというようなことを聞かれても、よほど特別なことがないかぎり、はつきり思い出せないのがあたりまえのことである。右のようなごたごたした状況のもとでは、すぐに記憶が前後したり、なくなつたりしてしまうのであり、自分のことでも正確には思い出せないのが普通であろう。このような人たちに「あの時佐藤一は最後までいたのだ」と強く言えば、「そうかもしれない」と思い、また「あのときは中途でいなくなつたのだ」と強く言えば、「そのような気もする」と、思うかもしれないのである。だから、右のような状況のもとでの右のような供述は、そのことがらの性質上、もともとあまりあてになるものではないのである(もちろん、なにか特別の具体的事実にむすびついた記憶の根拠があればべつであるが、右の供述のどれにもそのようなものはない)。したがつて、第一、二審裁判所が、右にのべた証拠の状態から、佐藤一が午前の団交の最後までいたということが証明されたことにならない、と判断したのは、すこしも不合理ではなかつたのである。

右のような状況のもとでの右のようなことについての人間の記憶ほどあてにならないものはない。あてになるのは記録である。とくに、会議が午前午後にわたつたようなときには、それが記憶に残つている場合でも、一体のものとして感じられ、午前のことと午後のことが混線してしまうことは、普通のことであろう。したがつて会議の経過をあとでたしかめようとするには、関係者の話を聞くよりもなによりもまずその記録がのこされていれば、これを見て、その作成者の話を聞き、これにもとづいて関係者の話を聞けば、関係者の方でも、それを手がかりとして「そう言えばあのときこういうことがあつた」と、正確な記憶を呼びおこすことが、できるかもしれないのである(もともとこれが会議の議事録なりメモなりを作つて残しておく目的である)。

半年以上も前の会議の経過が問題になつていて、しかもそれについて会議の現場で発言の要領を筆記したメモが残されているのに、そのメモはふせておいて、すこしもあてにならない関係者の記憶にもとづく供述だけを聞くというのは、常識をこえた不合理なやりかたである。この不合理なやりかたが、第一、二審の審理では現実におこなわれたのである。しかも第一、二審裁判所は、そのようなメモが存在することさえも知らされていなかつたのである。

会議の経過があとで問題になつて、しかもその会議の経過について議事録なりメモなりが残されていれば、なによりもまずその議事録なりメモを見るのが常識である。会議の経過をしらべようとすれば、だれでもそうするのである。これが常識であることを否定する人はいないであろう。第一、二審の検察官は、この常識を無視したのである。

検察官は、諏訪メモと田中メモを審理に不必要と考えたから出さなかつた、と言う。差戻後第二審の検察官の主張はつぎのとおりである。

「諏訪メモの八月一五日午前中の団交の記事については、本件起訴の前後を通じ、取調べられた関係人の供述と綜合しても被告人に有利にも不利にもならず法廷に顕出する価値なしと認められ、その他の記事についても公判において主張立証の状況からみて、利益、不利益何れの観点よりするも二審公判終了に至るまで特に取調を請求する必要が生ずに至らなかつた」(差戻後第二審検察官意見要旨(甲42P247)

諏訪メモは、要領筆記であつて速記録ではないから、諏訪メモの午前の記録の最後に佐藤一の発言が記載されても、それだけではかならずしも佐藤一が午前の団交の最後に発言して、それで午前の団交が打ち切られた、と断定することはできない。したがつて、諏訪メモは、それだけでは、佐藤一のアリバイの決定的な証拠であるとは言えない。しかし諏訪メモは、それだけ孤立して存在する証拠ではない。諏訪メモの筆者である事務課長西肇が、「最後に佐藤一が相当長く発言し、私の記録が終つたときに午前の交渉が終つたように記憶しております」と供述しているのである(西肇10.29吉良調書)。しかも、諏訪メモとは反対に、労組の側からおなじ団交の経過を記録した田中メモを見ても、午前の団交の記録の最後には佐藤一のおなじ発言が書かれていて、この点でこの二つの記録は完全に一致しているのである。これでどうして、諏訪メモは「被告人に有利にも不利にもならず」と言えるのだろうか。しかも、当時すでに検察官の手もとには、「佐藤一は八月一五日の昼八坂寮に帰つて昼食をした」という寮管理人木村ユキヨの供述調書、「午後一時ちかくに佐藤一が八坂寮の玄関で靴をはき組合事務所の方に行くのを見た」という紺野三郎の供述調書、「八月一五日午後一時すぎに組合事務所に青年部員数人とともに行き、同事務所から宣伝ビラを持つて午後二時すぎの汽車に乗つてて福島へビラはりに行つた。そのとき組合事務所には佐藤一がいて宣伝ビラを自転車に乗せて松川駅まで送つて来てくれた」という本田基の供述調書および本田基の記憶の正確なことを裏づける高橋勝美の供述調書、事故簿などが存在したのである(これらの証拠についてはすべて、第二章第五、六節でくわしく説明した)。―第一、二審裁判所は、これらの証拠の存在についてさえ、なにひとつ知らされていなかつた。――諏訪メモを、これらの佐藤一の午前午後にわたる行動をしめす証拠の一環として見れば、これが佐藤一にとつて決定的に「有利な証拠」であつたことは、明白であり、それは第二章で論証したとおりである。

これを「取調べられた関係人の供述と綜合しても被告人に有利にも不利にもならず法廷に顕出する価値なしと認められ」などという主張がどうしてできるのか、まつたくわからない。重要なのは、右の「法廷に顕出する価値なしと認められ」という検察官の判断そのものの当否を判断する機会が、第一、二審ではいつさいあたえられなかつたということである。つまり、検察官がこのような証拠を持つているということを第一、二審裁判所はすこしも知らされていなかつたということである。右のような証拠がはたして、「法廷に顕出する価値なきもの」であるかどうかは、終局的には裁判所が判断すべきものである。かりに、検察官がそのように判断して証拠調の請求をしない場合でも、すくなくとも、検察官は、裁判所にそのことを知らせ、その検察官の判断そのものの当否を判断する機会を裁判所にあたえるべきである。刑事訴訟法の個々の規定がどのようになつているというようなことと関係なく、裁判所が事実認定の最終責任を負つている以上、それは当然のことである。

かりに、検察官が諏訪メモなどの証拠を審理に不必要と考えても、裁判所はこれを必要と考えたかもしれない。むしろ必要と考えたにちがいないのである。もともと団交の経過が問題になつているのに、その経過を現場で記録したメモを見る必要がない、などと考えるのは、おそらく検察官(および、当民事事件になつてからの被告)だけであろう。第一、二審の裁判所は検察官のこのまちがつた考えのために、団交の経過が問題になれば、なによりもまず見るべき諏訪メモと田中メモに対して完全な目かくしをされ、その存在さえも知らないまま、そのことがらの性質上あてにすることができない、半年以上たつたのちの前記の関係者の曖昧な供述を聞いただけで、佐藤一のアリバイについて判断しなければならなかつたのである。

検察官が諏訪メモと田中メモを審理に不必要と考えたならば、なぜ法廷で「八月一五日の団交については、諏訪メモと田中メモという二つの記録があり、検察官はすでにこれを押収している。検察官としてはこれは審理に不必要と考えるから、これについては証拠調の請求はしないが、どちらも団交の経過を記録したものであるから、もし団交の経過を知るために裁判所で検討の必要があるならば提出してもよい」と言えなかつたのか。証拠調の請求をしなくても、すくなくともその注意を喚起しておくべきである。これが検察官の当然なすべき公正かつ誠実な訴訟追行の態度であろう。それさえもしなかつたというのはあきらかに検察官の職務に違反する訴訟追行のしかたである。

それだけでなく、第一、二審判決で佐藤アリバイを否定する根拠として採用されている前記の鷲見誡三の証言のなかには、諏訪メモの記載に反する明白なまちがいがあつたのである。前述のとおり鷲見は「はじめに杉浦が一五分ぐらい発言し、つぎに佐藤一が発言しようとしたので、その発言資格が問題になり、結局労組が委任状を出すことになり、佐藤一は巻線係の人員整理について一〇分間ぐらい発言した。その後は佐藤一は発言しなかつたので、いたのかいなかつたのかわからない。中途でいなくなつたように思う」と証言した。

はじめに、杉浦が発言し、つぎに佐藤一の資格についての議論がおこなわれ、つぎに佐藤一が巻線係の人員整理について発言した。ここまでは、鷲見の供述は正しい。諏訪メモにもそのとおり記載されている。しかし佐藤一の発言がそれだけだつた、というのは明白なあやまりである。諏訪メモを見ると、右の佐藤一の巻線係についての発言のつぎに、杉浦と鷲見の問答が二ページにわたつて書かれそのつぎにまた佐藤一の鶴見工場の状況などについての二回目の発言が約一ページ半にわたつて書かれている。佐藤一が、すくなくとも右の巻線係についての発言のあと、諏訪メモの二ページにわたつて書かれている杉浦と鷲見の問答と、そのつぎの一ページ半にわたつて書かれている佐藤一自身の発言がおわるまでは団交の場にいたことはあきらかである。

したがつて、この場合検察官は、当時鷲見に諏訪メモをしめし、「あなたは佐藤一が午前の団交で巻線係のことについて一回しか発言しなかつたようにいうが、このメモを見ると、それはまちがつている。これによると、巻線係についての佐藤一の発言のあとで、杉浦と鷲見の問答が相当長くつづき、そのあとでまた佐藤一が相当長く発言したことがあきらかである。あなたの記憶はまちがつていないか」と問い、正しい記憶の喚起をさせるべきである。すなわち、検察官としては、鷲見の供述のあやまりを正すためにも、是非とも諏訪メモを法廷に出さなければならなかつたのである。それが法廷に真実を顕出すべき検察官の職務である。

第一、二審の検察官がこの職務をおこたり、諏訪メモを法廷に出さなかつたために、右の明白にまちがつている鷲見の証言が、第一、二審裁判所の判断の基礎となつてしまつた。原二審裁判所が「以上を要するに、佐藤一が八月十五日の団交の午前中最後までそこに居たかどうかについては鷲見誡三の証言により之を消極に認めるのが相当である。なお佐藤一がその団交の席から去つたのは午前十一時十五分松川発の下り列車に間に合う時刻であつたと認めることができる」(乙2P25612562)と判断したことは前述のとおりである。鷲見の証言が、あきらかにまちがつていることが、諏訪メモと田中メモによつて証明されていれば、右のような判断はできないはずである。結果としては、検察官の右にのべた不誠実かつ不公正な訴訟追行が裁判所の判断をあやまらしめたことになる。これは、まことに重大な職務違反と言わなければならない(第二章第四節(二))。

要するに、第一、二審の検察官が諏訪メモを法廷に出さなかつたという行為は、(1)会議の経過が問題になつて、しかもこれについて、議事録なり、メモなりが残されていれば、なによりもまずそれを見るべきであるという常識に反し、(2)諏訪メモと田中メモと西肇10.29吉良調書を合わせ、これを佐藤一の午前午後にわたる行動をしめす全証拠の一環として見れば、それは佐藤一にとつて決定的に有利な証拠であつたのに、「被告人有利にも不利にもならず法廷に顕出する価値なしと認められる」というまちがつた判断のもとに、第一、第二審裁判所にはその存在さえも知らせず、(3)しかも、鷲見誡三が諏訪メモの記載に反するあきらかにまちがつた証言をしたのに、これを諏訪メモによつて正さなかつた、という三重の意味で違法かつすくなくとも過失ある行為である。

被告は、右の明白な職務違反を認めないで、問題の鷲見の証言についてつぎのように主張する。

「なお鷲見が佐藤一の発言が二回に亘つて行なわれたことを明確に述べていないのは、同人が佐藤の前後の発言を区別して記憶していないためと思われるが、このことは、前後の発言が別個のものとして印象に残らぬ程時間的に離れていないものであること、二つの発言を合わせても精々一〇分程度のものであることを窺わせるに十分である」

(被告第四準P400(384))

差戻後の検察官の主張も、右と同様である。

「なお、鷲見が、一審公判および、24.10.27辻調書において、団交席上における佐藤一の発言が、一回しかなかつたように述べ、その発言時間を一〇分位と述べているのは、同人が佐藤一の二回に亘る発言を混同して一回しか発言がなかつたように記憶しているものと思われる。そのことは、佐藤一の一回目と二回目の発言の間に行われた他の者の発言は短時間で殆ど記憶に留まらない程度のものであつたこと、佐藤一の発言に要した時間が二回合せても一〇分程度のものに過ぎなかつたであろうことを、推測させるものである」(差戻後第二審検察官意見要旨甲42P246)

これが、刑事事件から当民事事件を通し、検察官と被告の鷲見証言についての一貫した主張である。しかし、佐藤一の第一回目の発言と第二回目の発言のあいだにおこなわれた杉浦と鷲見の問答は、諏訪メモAの二四ページと二五ページの二ページの全面に書かれているものである。これが、「前後の発言が別個のものとして印象に残らぬ程時間的に離れていないもの」であつたとか、「短時間で殆ど記憶に留まらない程度のもの」であつたというのは、まことにおどろくべき主張である。さらにまた、佐藤一の一回目の発言は諏訪メモAの二三ページの上から九行目(下から七行目)からはじまり、その第二回目の発言は二七ページのおわりまでつづいている。つまり、そのあいだに四ページ以上の記載がある。したがつて、被告と検察官の主張するように、「佐藤一の前後の発言が別個のものとして印象に残らぬ程時間的に離れていないもの」であつて、「二つの発言を合わせても精々一〇分程度のものである」とすると、諏訪メモの四ページ以上にわたつて書かれている発言が一〇分ぐらいの時間でおこなわれたことになる。すなわちそれは、諏訪メモAの一ページに書かれている発言が平均二分半たらずの時間でおこなわれたということである。このような主張が、まちがつていることは、右の主張と第二章第二節にかかげた諏訪メモAの原文をくらべてみれば、だれにでもわかることである。

鷲見誡三の証言がまちがつていたということは、どのようなこじつけによつても、おおいかくすことができない明白な事実である(第二章第四節(二)参照)。それは、鷲見の法廷での証言、鷲見10.27辻調書の記載と、諏訪メモ・田中メモを対照して見ればすぐわかることである。右にかかげた検察官の鷲見証言についての主張は、その主張自体、誠実かつ公正なるべき検察官の主張立証の職務とかけはなれたものである。

第三、郡山市警察署の来訪者芳名簿と宍戸金一の供述

太田自白と検察官および被告の主張によれば、斎藤千は、八月一三日正午ごろ国労福島支部事務所で、国労と松川労組の幹部一〇人が同事務所の五畳のたたみ敷きの部分に、車座になつておこなつたという「列車転覆の謀議」(そのすぐ前の二メートルぐらいしかはなれていない支部の事務席には、羽田照子、大橋正三らの常勤書記がいたことになる――第三章第三節参照)に出席し、「このことは絶対に口外してはならない。口外すれば命がないものと思わなければいけない」という発言をしたことになつている。

ところで、第五章第三節で論証した事実を要約するとつぎのとおりである。

斎藤千は、八月一二日に、その日郡山事件のため逮捕された国労福島支部副委員長渡辺郁造の釈放運動、面会、差入などのため郡山市に行き、その晩は国労郡山分会事務所に泊まり、翌一三日朝七時ごろ、渡辺のために朝食の差入れに行き分会事務所に帰つていたところ、一〇時ごろ宍戸金一が来た。

宍戸は、その年(昭和二四年)の四月までは国労青年部福島支部常任委員をしていて、やめたのちも郡山分会に出入りしていた者で、斎藤、渡辺らとは知り合いだつた。そこで、渡辺に昼食の差入れと面会をするため、斎藤と宍戸が郡山市署に行くことになり、一〇時半ごろ分会事務所を出た。

そして、斎藤と宍戸は、市署の附近の「世界」という飲食店に行き、かつどん二個を注文した(当時市署には渡辺郁造のほか田中国允も留置されていたので、この二人に対する差入れのためである)。それができてくるのを待つているあいだに、斎藤は「おれはまだ朝めしを食つていないから」と言つてもう一つかつどんを注文した。やがて、かつどんができて来たので、宍戸は、その店からおぼんを借り、二個のかつどんをのせてふろしきでつつみ、これを持つて斎藤よりひ足とさきに店を出た。そのとき斎藤は、かつどんを食べていて、あとからすぐ行く、と言つていた。

宍戸は、このようにしてかつどん二個を持つて郡山市署に行き、玄関受付にあつた来訪者芳名簿に、すぐあとから来ることになつている斎藤千と自分の名前と用件を記入して、署内にはいつた。当時郡山市署では、警備の必要から、警察官二人を一時間交替で玄関入口に受付係として配置し、「来訪者芳名簿」と題した帳簿をそこに置き、外来者の氏名と用件を書きこませていたのである。なお、宍戸が警察署の玄関からはいつた時刻が、午前一一時以後であることはその日午前一一時から正午まで受付係の勤務についていた近野芳一巡査の供述(11.10柏木調書)によつて証明されている。

宍戸が警察署の階下で待つていると、まもなく斎藤千が来たので、二人で二階に上り、司法室の係官に用件を言つたところ、面会は許されないで差入れだけが許されたので、持つてきたかつどん二個を係官に渡し、どんぶりがからになつて返つてくるのをそこで持つていた。

待つているあいだに、警察署の裏偶の内庭で渡辺郁造が警察官から写真をとられている姿が見えた。そこで斎藤に「郁ちやんが写真をとられている」と話したところ、斎藤は「どらどら」と言つて、その方へ行つて見たが、すぐ帰つて来た。このようにして三〇分くらい待つているうちに、からのどんぶりが返つて来たので、これを受け取り、斎藤と二人で警察署を出て、途中で、「世界」にどんぶりとおぼんを返して分会事務所に帰つて来た。

宍戸金一は、昭和二四年一一月九日と同月一〇日に保倉検事により、同月一一日に山本検事により、前後三回にわたる取り調べを受け、右の事実をくわしく供述した。

そして、その供述は、右の飲食店「世界」の娘島田静子の「日は、はつきりしないが、そのころ午前一〇時すぎに二人のお客が来て、かつどんを合計三個注文し、そのうち一人が一個を店で食べ、二個は警察署に差入用に持つて行くというので、丸いおぼんにのせて渡してやつたことがある」という供述および渡辺郁造と村上定巡査の「八月一三日午前中(ただし朝ではない)郡山市警察署の内庭で渡辺郁造の被疑者写真がとられた」という供述によつて裏づけられている(第五章第三節第二の二、三)。宍戸の供述は嘘や作りごとではない。そのなによりの証拠は、検察官が押収した郡山市警察署の来訪者芳名簿の八月一三日の部分に斎藤千と宍戸金一の氏名がならんで宍戸の筆跡で記入されているという事実である(なお、斎藤はこの日の朝にも差入れに来ており、午後は村上光夫とともにもう一度面会に来て、さらに夕食の差入れにも来ている。つまり斎藤は、この日四回郡山市警察署に来たのであり、そのたびごとに斎藤の氏名が右の来訪者芳名簿に記入されているのである)。

郡山市警察署の来訪者芳名簿は斎藤アリバイの明白な証拠である。ところが検察官は、右の来訪者芳名簿に記入されている斎藤千と宍戸金一の氏名が、宍戸によつて書かれたものであるから斎藤アリバイの証拠にならない、という、考え方で、宍戸の取り調べのとき、宍戸に命じて「上記の筆跡は私の筆跡に相違ありません。宍戸金一」という付箋を作らせこれを右の来訪者芳名簿の斎藤と宍戸の氏名の下に添付させ、付箋と原本のあいだには、割印を押させた。

これは、証拠物の取り扱い方としてまことに異常なことであろう。証拠物たる文書はこの世にただ一つしかない、かけがえのない物である。したがつて、どのような意味でもこれに手を加えてはならない、ということは、およそ法律家たる者の最低の常識であり、倫理である。その文書の作成者であろうとなかろうとおなじことである。この場合、かりに、付箋は取り去ることができるとしても割印は原本に残るのである。したがつて、この部分だけは、あきらかに押収した証拠物たる文書の原本に手を加えたことになる。もしこのようなことが無神経におこなわれるならば(被告はこれをすこしも不法でないと主張している)、一歩あやまれば、証拠物たる文書の改変になりかねないのである。検察官たるもののなすべきことではないであろう。

右の来訪者芳名簿のような帳簿に氏名を記入すべき者が一度に二人以上ある場合に、一人がほかの者の氏名もついでに書くということは、日常生活で普通におこなわれていることである。むしろ、一人一人が記入するというような面倒なことをしないで、一人が全部の氏名を書く場合の方が多いくらいであろう。斎藤千よりひと足さきに警察署に来た宍戸金一が、自分の氏名とともにすぐあとから来ることになつている斎藤千の氏名も、ついでに記入して待つていても、すこしも不思議なことでなく、むしろ普通のやりかたである。

前述のとおり宍戸金一の供述はけつして嘘でも作りごとでもない。そのなによりの証拠は、郡山市警察署の来訪者芳名簿の八月一三日の部分に斎藤千と宍戸金一の氏名がその用件とともにならべて、宍戸の筆跡で記入されているという事実である(第五章第二節参照)。

したがつて、右の証拠物たる文書である来訪者芳名簿に付箋をつけて割印を押させるというような小細工をしてみたところで、それはなんの意味もないことである。――右の来訪者芳名簿は刑事事件の終了にいたるまで、ついに法廷に顕出されず、裁判所の目にふれなかつた。それならば、検察官は、いつたいなんの目的で、だれに見せるために、右のような小細工を押収した証拠物たる文書の原本にほどこしたのか、その理由を説明すべきであろう。被告は、「この付箋は宍戸がそのように述べ、自ら確認し納得したものであつて、斎藤の記名が宍戸の筆跡であることは間違いなく、それはありのままの註釈であつて、このことが証拠の改変、捏造であるとはいえない」(被告第四準P433(403))と主張する。しかし、押収した証拠物たる文書の原本に「註釈」をほどこしてよいものだろうか。このような措置を正当な措置であつたように主張するのは、あやまりである。

警察署の玄関受付に備えられている来訪者芳名簿に斎藤千の氏名が記入されていれば、斎藤が警察署に来たと考えるのが普通の考えであろう。まして、この場合、いつしよに来て、斎藤の氏名を自分の氏名とともに記入した宍戸金一によつて、そのときの経過がくわしくのべられ、しかも、これが第三者である島田静子や渡辺郁造の供述によつて裏づけられている。

これで、どうして、斎藤千が、宍戸金一とともに昼食差入れのため郡山市警察署に来たことにならないのであろうか。被告の主張はとても常識では理解することができない(第五章第三節)。右に見た郡山市警察署の来訪者芳名簿、宍戸金一、島田静子の供述が、斎藤千にとつて決定的に有利な証拠であつたことはあきらかである。これが斎藤千にとつて「有利にも不利にもならない」などという、議論はまことに非常識であり、不合理である。したがつて、検察官がこれらの証拠を第一審法廷に提出しなかつたのは重大な務職違反である。第一審裁判所はこれらの証拠の存在さえも知らなかつたのである。もし、これらの証拠が第一審で提出されていれば、斎藤アリバイが、第一審で認められたことは、ほとんど疑いのないことである。そして、斎藤アリバイが、このような明白な物証とこれに裏づけられた宍戸金一、島田静子の供述によつて証明されていれば、それだけでも太田自白の信用性に大きな影響をおよぼすのであり、ひいては、事件全体に対する判断が変ることになりかねないのである。

なお、斎藤千が、第一、二審段階で、八月一三日宍戸金一とともに郡山市警察署に昼食の差入れに行つたことを思い出すことができず、宍戸を証人として申請しなかつたのは、たしかにうかつだつたと言える。しかし、斎藤は、八月一二日から一五日までのあいだ郡山市に滞在して渡辺郁造の釈放運動をつづけ、その間毎日何回となく面会、差入れなどのため郡山市警察署にかよい、いつしよに行つた者も、古川朝男、村上光夫、宍戸金一など、そのときどきによりまちまちであり、またひとりで行つた場合もある。このように、同じようなことを何回もくりかえせば、あとで思い出すときに記憶の混乱、脱落がおこるのは、むしろあたりまえのことである。記憶の換起についてなんの手がかりもなかつた勾留中のことであれば、なおさらであろう。斎藤が宍戸のことを思い出せなかつたことを責めることはできない。

つぎに、これについて、第二審の経過を見ると、第二審でもやはり、検察官は来訪者芳名簿とこれに関する宍戸金一および島田静子の供述調書を法廷に提出しなかつた。そして、第二審の裁判長は、昭和二七年五月二八日第四四回公判で、「職権により郡山市警察署に対し昭和二十四年八月一日から同月十六日までの間に(特に同月十二日、十三日)同署に勾留中の被疑者、被告人に対し面会を求めたもの及び差入をした者の名前を明らかにしている帳簿又は書類があればそれの提出を求めること」について検察官と弁護人の意見を求めたところ、検察官と弁護人は右について然るべく決定されたい旨を陳述した。そこで第二審裁判所は、「郡山市警察署に対し前記帳簿又は書類の有無を照会し、若しあればその提出を命ずる」旨を決定しこれを宣言した(甲18P160)。

そして、裁判長は、右の決定にもとづき五月三〇日郡山市警察署長あてに「書類等の有無の調査及びその提出方嘱託」と題する書面を送つた。その内容はつぎのとおりである。

一、貴署において、昭和二四年八月一日乃至同月十六日までの間に、勾留中の被疑者との面会を求めた者及びかかる被疑者に対し差入をした者の氏名を記載しておいた簿冊書類等があるか。

二、もし右簿冊書類等があらば之を送付提出相成度。(甲25P37)

これに対して郡山市警察署長がよこした回答はつぎのとおりである。

一、について

昭和二十四年八月一日乃至同月十六日までの間の面接簿及び差入簿がないため当署に勾留中の被疑者に面会を求めた者及び差入したものについては不明である。(甲25P37・38)

そこで裁判長は、同年六月一九日第四五回公判で「――同署長から右期間の面接簿及び差入簿がないため同署に勾留中の被疑者に面会を求めた者及び差入をしたものについては不明である旨の回答があり結局右簿冊書類の取寄は不能に帰した」旨を告知した。そして、この告知に対しては検察官からも弁護人からもなんの陳述もなかつた。

第二審裁判所は斎藤アリバイの成否をあきらかにするために、職権でこれらの書類の寄取を決定したのである。外来者の氏名と用件を記入させ、しかも八月一三日の部分に斎藤千の氏名が四カ所も記入されている来訪者芳名簿こそは第二審裁判所の求めていた書類帳簿であつたことは明白である。そして、それはすでに捜査段階で検察官によつて押収され、福島地方検察庁にあつたのであるから、これを郡山市警察署などに取寄嘱託して見ても、それが「不能に帰する」のは、はじめからわかり切つていたのである。そして、第二審裁判所はこれをまつたく知らないで、検察官の「然るべく決定されたい」旨の意見を聞き、取寄を決定し、これを実行し、その結果、右の取寄決定が「不能に帰した」旨を告知したのに、それでも、なお検察官は黙つていたのである。

来訪者芳名簿は、これと関連する宍戸金一、島田静子の供述調書とあいまつて斎藤アリバイの明白な証拠であり、これを第一審で出さなかつたことがすでに検察官の職務違反であることは、前述のとおりである。右にのべた第二審検察官の行為は、右の職務違反に加重されるさらに重大な職務違反である。それは、結果としては、来訪者芳名簿を第二審裁判所に対してかくしたのとまつたくおなじことになるからである。裁判所が取寄決定までしてさがしもとめている証拠物を、検察官がすでに押収し、保管していながら、その存在さえも裁判所に知らせないというようなことは、あつてよいことではない。もしそのようなことが、刑事訴訟法にその規定がないという理由で許されるならば、裁判所はどうして事実認定の最終責任を、負うことができるだろうか。

第二審担当の検察官個人が、来訪者芳名簿の存在を知つていようが知らなかろうが、そのようなことは右にのべた検察官の職務違反の成否にはなんの関係もないことである。知らなかつたで済むような性質のことではないのである。検察官同一体の原則は、検察官に都合のよいときにだけ適用される原則ではない。

被告は、

来訪者芳名簿等の簿冊や宍戸金一の供述調書が刑事事件の公判で証拠とならなかつたことは原告ら主張のとおりであるが、これは何ら捜査官の隠匿によるものではない。

来訪者芳名簿等の証拠物は刑事第一審の経過で弁護人に閲覧させているにかかわらず、一連の簿冊を閲覧させないなどとは考えられない。

と主張する。しかし、この場合弁護人に閲覧させたとか、させなかつたということはすこしも問題になることではない。この場合問題になつているのは、裁判所が、職権で取寄決定までして、さがしもとめている証拠物を、検察官がすでに押収して手に入れているにかかわらず、その存在さえも裁判所に知らせないでよいのか、ということである。簡単に言えば、裁判所が見たいと言つている証拠物を、検察官が持つていながら黙つていてよいのかということである。

かりに、検察官が来訪者芳名簿を弁護人に見せたとしても、弁護人はおびただしい数の証拠物をかぎられた時間内に見るのであるから、その重要性を見落すこともあるかもしれない。弁護人が見てもそのことを法廷で言つて、検察官にその提出を求め、検察官がこれに応じてこれを法廷に提出しなければ、裁判所の目にはふれない。だから、弁護人に見せたとか見せなかつたとかいうことは、右にのべた検察官の責任には、なんの関係もないことである。

証拠にもとづいて事実を認定するのは検察官でも弁護人でもなく、裁判所である。裁判所が見たいと言つている証拠物を検察官が持つていながらこれを見せないということは、その意味で刑事裁判の根本に反することである。検察官は、来訪者芳名簿をすでに押収して手に入れていて、しかも第二審裁判所が職権で取寄決定をしてまでこれをさがしもとめていたにかかわらず、その存在さえも裁判所に知らせなかつた。そのため裁判所は、これがもはや存在しないものと信じ「――同署長から右期間の面接簿及び差入簿がないため同署に勾留中の被疑者に面会を求めた者及び差入をしたものについては不明である旨の回答があり結局右簿冊書類の取寄は不能に帰した」旨を法廷で告知したのである。ところが、そのときには、問題の郡山市警察署の来訪者芳名簿およびその関係帳簿は福島地方検察庁内に現存したのである。すなわち、第二審裁判所はこの点で明白な錯誤におちいつていたのである。そして、第二審裁判所をこの明白な錯誤におちいらしめた原因は、検察官が「然るべく、決定されたい」という意見をのべたまま、すでに押収してある来訪者芳名簿について、ひとことも言わなかつたことにある。つまりすくなくとも結果から見れば、検察官が右の行為により第二審裁判所を欺罔し、第二審裁判所に対して来訪者芳名簿を隠匿したのとまつたくおなじことになるのである。その義務違反の程度は重大である。

第二審裁判所は、右の来訪者芳名簿の存在さえ知らないまま、斎藤アリバイを認め、斎藤に対しては、無罪の宣告をした。しかし、それならば来訪者芳名簿は出しても出さなくても結果はおなじだつたかというと、そのようなことは言えない。斎藤アリバイについての明白な物証である来訪者芳名簿とこれによつて裏づけられる宍戸金一、島田静子の供述によつて、それが証明される場合と、そうでない場合とでは、おなじく斎藤アリバイを認めるにしても、心証の、強度がちがう。つまり単に疑わしいという程度ではなくなるからである。そして、斎藤アリバイについての心証が強くなればなるほど、太田自白の信用性はうすれるのである。そしてこれに、本節第二で説明した諏訪メモ、田中メモなどの佐藤一のアリバイの関係証拠を加え、これらを総合して見ると、第二章、第三章で論証したとおり、太田自白を中心とする謀議関係の大すじがほとんどつぶれてしまうのであるから、ひいては事件全体の判断に影響する可能性があつたことはたしかである。右にのべた検察官の明白な職務違反の行為が、刑事事件の審理の重大なさまたげとなつたことはあきらかである。

第四、赤間自白の信用性に関する証拠についての検察官の行為

すでにのべたように、赤間自白は、すでにそれが生まれたときから、信頼できるかどうかわからないことのあきらかなものであつた。すなわち、それは、赤間が真犯人であろうがなかろうが自白せざるをえないような形の取り調べによりおこなわれたものであつた。したがつて、捜査官は、その後の捜査、検討により、赤間自白の真実性を裏づけるよほどはつきりした資料を、新たに見つけないかぎり、これを信用してはならなかつたのである。ところが、実際には、捜査が進めば進むほど、逆に、赤間自白の真実性と両立しえない、あるいは、しにくい証拠がつぎからつぎとあらわれた。赤間自白は、もともと、虚偽架空の作文にすぎなかつたのであるから、これは、当然起こるべくして起こつたことである。しかし捜査官、公訴官は、一旦得た赤間自白の真実性についての確信(この確信自体、合理的な根拠などなにもないものであつたのである)を、あとになつてそれに反する証拠がいくら出てきても、どうしてもすてようとしなかつた。そして、それにもとづき、多くの者に対して捜査をおこない、公訴を提起し追行した。

しかし、警察官や検察官がこのようなあやまつた行為をしても、それだけのことならば、まだ、被害は比較的すくなくてすむところであつた。すなわち、検察官が、公訴追行の過程で、当然提出すべき証拠を提出し、提出すべきでない証拠を提出しなかつたならば、赤間自白が信用できないものであることがもつと早くあきらかに、されたであろうということは、ほとんど疑いがない。ところが、本件の捜査に当つた者(玉川警視や武田巡査部長など)が、刑事事件の証人となつたとき、争いの対象となつている重要な事項についてはほとんどすべての点で事実に反する証言をおこなつているのに、検察官は、多くの場合そのことをあきらかにする資料を手に持つていたにもかかわらず、そのまちがいを、訂正しなかつた。それどころか、検察官は、出すべきでない書証を出して、捜査官のまちがつた証言の信用性を高め、捜査官の証言と対立する正しい証言の信用性を低下させようとさえした。

これらのことの例はたくさんあるが、ここでその最たるものを二、三あげるとつぎのとおりである。

イ、出発集合地点とそれに続く往路の一部の変更に関する玉川警視の証言についての検察官の処置(第七章第二節第五の八参照)。

赤間の9.19玉川調書と9.21玉川調書とでは、出発集合地点とそれに続く往路の一部についての供述が明確に変つている。これが、赤間の自発的供速変更ではなく、捜査官の示唆、誘導にもとづくものであることは、第一節においてのべたとおりである(くわしくは第七章第二節第五参照)。そして、この供述変更は、赤間が真犯人であるならば普通にはおこなわれないであろうと思われるような内容を持つたものである(第七章第二節第五の六参照)。だから、このような供述変更があつたかどうかということは、赤間自白全体の信用性の判断に影響を及ぼす重要な問題である。しかも、この供述変更については、赤間は、一審の段階以来はつきりと主張し、裁判所も(すくなくとも原二審では)相当な関心を示していた(第七章第二節第五の八参照)。

ところが、玉川警視は、この点につき「このような供述変更はおこなわれなかつた。はじめばく然と言つていたのを、あとになつて具体的に言い直したにすぎない」という、今では虚偽であることのあきらかな供述をおこなつた。この供述がまちがいであることは、9.19玉川調書を一見しただけですぐわかることである。この調書には、虚空蔵様をあとにしてから永井川信号所北部踏切手前の十字路にいたるまでの道筋が「明確かつ具体的に」のべられ、しかも、「永井川信号所の者に見つからないように、気をつけた」という、集合場所が右の場所であることと密接不可分な事実まで記載されているのであるから、どのように考えてもこれを「鈴木材木店材木置場」と見ることはできないのである。また、このことは、9.21玉川調書を見ればなおさらはつきりする。すなわち、「材木置場」のことがはじめて出てくる9.21玉川調書の書き出しは、「一昨日に列車脱線計画現場に行く場合本田さん等の待つて居つた場所並行つた道が違つておつたのでこれから申上げ度いと思います」ということばで始まつており、すぐあとに、「これは十五日の計画相談の折に本田さんが伏拝の農業協同組合のうしろで待つて居るからと言われたのが本当で先に申し上げたのが思い違いでした」と記載されている。供述変更はなかつたという玉川証言がまちがいであることは、あまりにもあきらかであつたのである。

このような場合、事実を法廷に顕出し裁判所に法の正当な適用を請求すべき義務を負つている検察官は、9.19玉川調書の提出、または口頭での陳述などの方法により、玉川供述のあやまりを指摘しこの点に関する赤間の主張が事実であることをあきらかにすべきであつたのである。ところが、検察官はそのことをしなかつた。その結果、原二審裁所判は「その状況を明確かつ具体的に述べれば、集合地点及びその後の道筋が右いずれであるかを混同する如き供述を生ずることがないと見るのが相当である」(乙2P544)と言いながらも、すなわち、このような供述変更と赤間自白の真実性とは両立しない、またはしにくいと判断しながらも結局、「之を要するに、その間の経緯は略々前記証人玉川正の証言の如き次第であつたものと認められる。赤間被告の前記主張は採用することを得ない」(乙2P546)、すなわち、供述変更はなかつたと判断してしまつたのである。これは、客観的に見るとき、検察官が、まちがつていることのあきらかな証拠により、裁判所をだましていたということにほかならない。

この点についての玉川警視のまちがいがわかるだけでも、すくなくとも原二審裁判所の判断は、相当の影響を受けたであろうということは疑いない。玉川警視の証言のあやまりを訂正しなかつた検察官の義務違反は重大である。

ロ、赤間予言に関する武田巡査部長の証言について検察官の処置(第七章第三節第四、第四節第二の六、七、八、九参照)

赤間の自白は、原告らに対する刑事訴追の出発点となつたものであり、「赤間予言」は、その赤間を疑う直接の出発点となり、赤間に対する追及の中心的資料となつたものである。だから、赤間予言に関する資料(安藤、飯島の供述)がどのようなものであり、どのようにして得られたものかということは、赤間自白の真実性の判断をおこなう上できわめて重要な問題である。

ところが、武田巡査部長は、この点について事実に反する証言をおこなつた。すなわち、武田巡査部長は、

(イ) 予言聞き込みの経過(実際には、九月六日に安藤を調べ、九月九日に飯島を調べ、そのあとでこれらにもとづいて赤間を調べているのにもかかわらず、はじめに赤間を調べたのは予言とは無関係である、ということを強調した)についても、

(ロ) 武田巡査部長が、安藤、飯島から聞いた赤間のことば(実際には、安藤、飯島は、「赤間は脱線があつたと言つた」と言つて、赤間のことばが過去形であつたことを明言していた。ところが武田巡査部長は、安藤、飯島が「赤間は今晩脱線があるであろうということを言つた」と言つたように証言した。すなわち、同巡査部長は、安藤、飯島がのべた赤間のことばは明白な未来形であつた、ということを証言したのである)

についても、

(ハ) 安藤、飯島の「赤間が脱線について話したのは八月一七日夜であつた」という供述は自発的な供述であつたかどうか(実際には、この供述は、武田巡査部長が二人に無理に言わせたものであつて、二人は、もともと、このようなことを言つていなかつた。ところが、武田巡査部長は、二人がこのようなことを自発的にのべたかのように証言した)

についても、すべて、事実に反する証言をおこなつたのである。

そして、右の武田供述の虚偽は、(イ)(予言聞き込みの経過)については、安藤9.6武田調書、飯島9.9武田調書の存在自体によりあきらかであり(赤間が出頭を求められたのが九月一〇日であることははつきりしている)、(ロ)(安藤、飯島の言つた赤間のことば)については、右の二つの調書の内容を見ればこれまたすぐわかることであり、(ハ)(安藤、飯島の自発的供述であつたかどうか)についても、右の二つの調書の内容自体でほとんど確実にわかることである(第七章第四節第二の六、七、八、九参照)。

ところが、検察官は、武田証言のあやまちを、いかなる形においても訂正しなかつた。検察官は、安藤9.6武田調書、飯島9.9武田調書の提出などの方法により、これを訂正すべきであつたのである。赤間予言という重要な問題についての、この検察官の職務違反は重大である。

ハ、赤間ミナ9.26山本調書の提出(第七章第三節第五参照)

捜査官が赤間に対し、祖母ミナが言つたこととして告げたことばが、赤間を自白に追い込むきめてになつた。このこと自体については刑事事件においても争いがなかつた。すなわち、「ミナは赤間の弁解(八月一六日夜は自宅に帰つた。そのことは祖母ミナが知つている)に合うことを言つていない」という事実が、赤間を自白に追い込んだ最後の切札であつた、という限度では、赤間の主張も、捜査官の供述も一致していたのである。

実際には、ミナは、捜査官に対し「勝美(赤間)は一二時ごろと一時ごろとのあいだに帰つてきた、と記憶する」との趣旨のことをのべていた。そして、このことは、ミナ9.17土屋調書の記載を見れば簡単にわかることである(第七章第三節第五の二の(四)、(五)参照)。だから、検察官は、当然、ミナが捜査官に対して実際にはどのように言つていたかということを、ミナ9.17土屋調書の提出などの方法によりあきらかにすべきであつたのである。ところが、検察官は、そのようにしなかつたばかりか、ミナの証言(ミナは、一審法廷で、「勝美は一二時と一時とのあいだに帰つてきた。そのことを捜査官にも言つた」との趣旨の供述をしていた)に対する反証として、ミナ9.26山本調書だけを提出した。このミナ9.26山本調書は、山本検事が、ミナの言うことをそのまま録取しないで、全体として、ミナの言いたいことの趣旨に反する内容の事実(「自分は、自分の直接の体験としては、勝美(赤間)がいつ帰つたか知らない」という趣旨の事実)を記載した調書である。そして、その結果、原二審裁判所は、

(6) 次に、前記(ロ)の点について考察すると、赤間ミナは原審二八回公判において証人として、自分は孫赤間勝美が八月一六日夜午前一時頃帰つたことを知つている。警察、検察庁で尋ねられたときもそのように述べた旨証言しているが、赤間ミナの昭和二十四年九月二十六日附山本検察官に対する供述調書(証一冊七三丁以下)には「私は赤間勝美の祖母である。本年八月十六日夜私は虚空蔵様のお祭りで、泊りに来ていた孫小野寺いつ子(十三才)勝江(十才)勝治(九才)と共に午後十時頃六畳の座敷に床をのべて就寝し、その時いつ子の寝ている隣りに勝美が寝る床をのべて置いた。私はその晩十二時半頃便所に起きたが、そのとき勝美はまだ帰つていなかつた。翌朝私は六時頃起きたら勝美は傍の寝床に寝ていた。勝美は七時頃起きたのでその時尋ねたら勝美は昨夜は一時頃帰つたといつた。それで、私は夜中の一時頃帰つたと思つている」旨の供述記載となつており、即ち赤間ミナは赤間被告が何時帰つたか自分では知らない趣旨の供述をしたことになつており、検察官が赤間ミナの前記証言の如き供述を歪曲して記載したとも認められないのであり、かつ、記録に徴しむしろ、右供述調書中の供述か真実と認められる。従つて、赤間ミナは、警察職員に対しても右検察官に対する供述調書程度の、当夜赤間被告の帰宅した時刻を直接には知らない趣旨の供述をすることは十分にあり得ることであり、当審証人武田辰雄(第四三回公判)の証言中赤間ミナが警察職員に対し右趣旨の供述をしたことは之を肯定し得、従つて同職員が、赤間ミナのそのような供述を資料として赤間被告を取調べたからといつて、虚偽の資料を以て自白を強要したものとはいわれない。

(乙2P46)

と認定したのである(第七節第二節第五の二の(一)、(二)、四参照)。

捜査官のまちがつた証言を、まちがいであることをあきらかにする調書(ミナ9.17土屋調書)を手にしながら、訂正しないということ、および、ミナの言うことの趣旨に反する調書を作成すること自体、それだけで、重大な職務違反である。ところが、検察官は、それに加えてそのような職務違反によつて作つた調書を、ミナの法廷供述に対する反証として、すなわち、裏から言えば、捜査官のまちがつた証言を補強するため提出する、ということまでおこなつた。これは、まことに不誠実、不公正であり、真実を法廷に顕出し、裁判所に法の正当な適用を請求すべき義務を負つた検察官の行為として、どうしても許すことのできないことである。検察官の職務違反はきわめて重大である。

第一節でのべたように、「赤間自白が真実であることについては合理的な疑いがない」と判断される可能性は、まつたくなかつたのであり、このような可能性があるという判断をした捜査官、公訴官の判断は、どのように考えても、非常識、不合理であつたのである。ところが検察官は、右のような非常識、不合理な判断にもとづいて公訴を提起したばかりでなく、公訴追行の過程においても、出すべき証拠を出さず、出すべきでない証拠を出すという、真実を法廷に顕出し裁判所に対して法の正当な適用を請求すべき立場にある検察官の義務に違反する行為をおこなつた。一審、原二審で有罪判決がなされたのは、このように、検察官が出すべき証拠を出さず、出すべきでない証拠を出したからであつて、このことは、すこしも、警察官、検察官の判断を正当化するものではない。むしろ、検察官の訴訟追行のしかたの不法がもたらした結果と言うべきものであり、結局のところ、検察官の責任を加重する原因として働くものなのである。

第五、その他の証拠

右の第二、第三および第四で説明した証拠のほか、本理由中に説明した決定的な論点について、原告ら(刑事事件当時の被告人)にとつて明白に有利だつたと見られる証拠をあげれば、つぎのとおりである。

(1) 本田のアリバイについて

(イ) 木村泰司 9.30宮川調書

(甲49P70)

(ロ)  〃   10.5宮川調書

(甲49P76)

(ハ) 小尾史子 9.23宮川調書

(甲54P123)

右の三つの供述調書を比較対照して見ると木村の供述変更後の供述に明白な嘘が含まれ、木村がどのような経過でその供述を変更したかがわかる(第六章第三節第五)。つまり変更後の木村の供述が信用できないものであることがはつきりわかるのである。そして、木村の変更後の供述が信用できないことがわかれば本田昇のアリバイは否定できなくなる。したがつて、右の三つの供述調書は、これを合せれば、当時の被告人らにとつて、決定的に有利な証拠だつたのである。

(2) 佐藤一の八月一五日アリバイについて

(イ) 木村ユキヨ 9.23佐藤調書

(甲49P218)

(ロ) 紺野三郎 10.28佐藤調書

(甲49P174)

(ハ) 本田基 9.27遠藤調書

(甲49P195)

(ニ) 高橋勝美 9.27遠藤調書

(甲55・113)

これらはすべて佐藤一の八月一五日午後の松川工場での行動に対するものである。これらの証拠と西山スイの第一審法廷での証言を総合し、さらに午前の行動についての諏訪メモ、田中メモ、西肇10.29吉良調書(本節第二)と関連して考えると、佐藤一の八月一五日午前午後にわたる行動がはつきりわかり、佐藤一のアリバイを決定的なものにしている(第二章第五、第六節)。

これらの証拠は、供述調書であるから、これを証拠として提出することについては刑事訴訟法上の制限があるが、相手方の同意があればつねに提出できるのであるから、検察官は、被告人の利益と解される可能性(これらの証拠にその可能性がないとはだれも言えない)のあるこれらの証拠を持つていることをあきらかにし、相手方の同意があればこれを提出する用意があることを告げるべきである。

たとえば、右の(2)の(イ)(ロ)(ハ)の供述調書は、どれを見ても佐藤一が、八月一五日午後一時前後に東芝松川工場にいたことを具体的にのべた供述調書である。したがつて、もしこれが信用できるならば、それだけで佐藤一の八月一五日のアリバイが立つてしまうのである。このような供述が、捜査段階ですでになされているという事実を検察官だけが知つていて、ほかの訴訟関係者にこれを知らせないということは、公正なやりかたでない。もし検察官がこれらの供述を信用しないならば、その信用しない理由をのべて、「このような、被告人に有利な事実(たとえばアリバイ)をのべた供述調書があるが、これは検察官は信用しない。ただし、裁判所でさらにこれを検討する必要があれば相手方の同意を得て提出する」と言うべきである。そうでなければ、その「信用しない」という判断の当否が、公開の法廷での論議の対象とならず、第三者にはわからない検察官だけの独断となつてしまうおそれがある。そのようなやりかたは、とうてい公正な訴訟追行とは言えないのである。まして右にかかげた供述調書は、いままで論証したとおり、本節第二、第三にかかげた証拠と合わせて総合して見れば、事件全体に対する判断を左右するものなのであるから、第一、二審の検察官がその存在さえも裁判所に知らせなかつたことは重大な職務違反であり、それが審理のさまたげとなつたことはあきらかである。

第六、むすび

右の第二ないし第五であきらかにした検察官の公訴追行上の義務違反は、第一でのべた証拠の開示、提出についてのあやまつた見解にもとづくものと、思われる。すなわち、検察官は、第一、二審では、その手持ち証拠のうち被告人に不利な形の証拠すなわち公訴事実と合致する証拠(主として、自白とその関係証拠)だけを提出し、被告人に有利な証拠すなわち公訴事実と矛盾する証拠が数多く存在し、しかもそのなかには、第二ないし第五にかかげた証拠のように被告人にとつて決定的に有利な証拠があつたにかかわらず、これをいつさい審理に不必要と判断して法廷に、提出しなかつたのである。そのため第一、二審裁判所は、その存在さえも知ることができなかつた。検察官が第一、二審で有罪判決を得ることができたのは、そのためである。もし第一、二審でこれらの証拠が提出されていれば、原告らが第一、二審で無罪となつていたことは、ほとんど疑いのないことである。このような公訴追行のしかたが検察官の真実義務にそむき、違法かつすくなくとも、過失あるものであつたことは、あきらかである。

検察官が審理に必要、すなわち、「真実」の発見に役立つと判断する証拠だけを開示、顕出すればよく、そうでない証拠(すなわち検察官が真実でないと判断した証拠――公訴事実と矛盾する形の証拠、たとえばアリバイの証拠は検察官にとつて真実でないと判断される証拠である)は、いつさい開示も提出もする義務はないという、第一でのべたまちがつた解釈がもたらした結果は、重大である(裁判所が全証拠の開示または提出を検察官に命ずることができないという現行法の解釈も、結局は右とおなじ考え方にもとづくものと思われる――事実認定の全責任を負つている裁判所が、検察官の全手持ち証拠の提示を求めているのに、検察官がこれを拒否することを認めるのは、やはり検察官の証拠に対する判断の絶対性を認めることになるのであり、第一で説明したとおり、その限度では刑事訴訟そのものを無意味なものにしてしまう)。本件で問題となつている刑事事件では、第一次上告審の段階で、諏訪メモが押収されていることがまつたく偶然の機会に弁護人に知られたことに端を発し国会の問題にまでなつたすえ、最高裁判所に提出され、さらに差戻後の第二審裁判所の勧告に応じて検察官がほとんどすべての証拠を提出したからこそ、事件の全貌が裁判所の前にあきらかになつたのである。そして、差戻前の第一、二審の裁判所は、本節でのべた証拠の存在さえも知らなかつたのである。このような、まことは不公正な結果をもたらす前記の「解釈」がまちがつていることは明白であろう。

なお、被告は、刑事事件における原告らの訴訟追行のしかたにも過失があつたとして、過失相殺を主張する。たしかに刑事事件における原告らの主張、立証のしかたのなかにも不手ぎわ、または不相当な点がなかつたとは言えない(たとえば、田中メモの存在に気づかなかつたことなど)。しかし、刑事事件の性質上これを被告人、弁護人の側の過失とまでは言えないだけでなく、かりに、なんらかの意味でこれを過失と評価できるとしても、右にのべた検察官の過失の重大さを考えると、この場合過失相殺を考慮するのは相当でないから、被告の右抗弁は採用しない。

第三節  予想される反対意見とこれに対する反ぱく

以上の判断に対しては、なお、次のような反対意見があるかも知れないので、以下において、予想される反対意見を掲げ、これに対し反ぱくを加えておく。反対意見は、次のとおりである。

いかなる証拠を基礎として公訴を提起追行するか、いかなる証拠をいかなる時期に提出するかなどの訴訟追行方法については、それが刑事訴訟法の許す範囲内のものであつて、その追行方法により有罪判決を期待しうる場合であるかぎり、原則として、検察官の裁量に任されていること、しかし、その裁量には一定の限界があり、不公正として非難さるべき点があつてはならず、たとえば、被告人のアリバイの証明に役立つことが明白な証拠を押収しながらこれを法廷に顕出しないことが許されるものでないことは、すでに第一章第二節の六予想される反対意見の中で述べたとおりである。このことは、刑事訴訟法上被告人の側に証拠開示請求権が認められるかどうかにかかわらず、憲法的見地における適正手続保障の原則と、検察官が公益の代表者であるということから生ずる当然の原則である。しかしながら、検察官の公訴提起追行行為が適正手続の保障に反する意味において不公正として非難さるべきものであるかどうかは、次の諸点をも考慮に入れて慎重に判断さるべきものであろう。

(1) たとえば、諏訪メモについていえば、この証拠がそれだけで(或いは他の証拠とあいまつて)佐藤一の一五日アリバイを絶対的に証明するものである場合は格別であるが、この点の評価には差異がありうることはこれまでの刑事裁判過程自体が、すでにそのことを示している(刑事裁判最終上告審判決は、原審((差戻二審))判決が諏訪メモなどにより佐藤一の一五日アリバイの成立は決定的に確証されたとか……の相当強い心証をとつていることは、当裁判所は疑問なしとしない。けだし諏訪メモの記載自体は佐藤一が、一五日午前中に行なわれた東芝の団体交渉の席に最後までいたか、それとも途中で退席したかについての決定的な証拠を提供しているものとは認め難く、その他同人の一五日アリバイの成立に強い心証をえた原審の判断をそのまま是認することに躊躇を感じる、と述べている)。かような場合、終局において、検察官の判断と裁判官の判断とが食い違つても、その食い違いが両者の判断に差異を生ずる原因となりうる諸事情(前記予想される反対意見の中で述べた諸事情)より生ずるやむをえない範囲を越えるものでないと認められる場合には、単に裁判官の終局的判断が検察官の判断と異なるということだけを前提として、ただちに、検察官がこれを法廷に顕出しなかつたことを不公正として非難すべきではない。そればかりではなく、個々の証拠をいかに評価し、どの程度重視するかということは、事案全体の評価や立証の重点を何処において訴訟を追行すべきかということの考慮等とも密接に関連するものである。たとえば、佐藤一の実行行為に関する供述を含む赤間自白及び浜崎自白、佐藤が一五日謀議に出席したことの供述を含む太田自白、並びに本田アリバイの不成立等を深く確信する検察官の立場においては、原告(刑事裁判当時の被告人)らの側からも、メモに関しなんらの具体的主張、立証活動を行なつていない状況の下で、諏訪メモの重要性やこれを法廷に顕出することの必要性をそれほどに評価しなかつたとしても、これを深くとがめることはできないであろう。もとより、現時点において批判的に見れば、被告人の自白を証拠の主体として訴訟を追行したことについて批判の余地があるであろう。しかし、これらの自白等を検察官が深く確信し、諏訪メモをもつて佐藤一の無実を証明する決定的証拠と評価しなかつたことについては、それ相応の理由のあることであり、たとえその判断が、刑事裁判において、終局的に是認されなかつたとしても、その判断は両者の判断に食い違いを生ずる原因となりうる諸事情より生ずるやむをえない範囲をこえると認められるほどに非常識、不合理なものでないことは、おおむね、それぞれの該当部分における予想される反対意見の中で、述べたとおりである。また、このことは、刑事第一、二審裁判所が、赤間、浜崎、太田らの各自白の任意性、信憑性を是認すると共に本田アリバイの成立を否定し、諏訪メモの提出された原上告審においても一二名の裁判官中五名の裁判官が原二審の有罪意見を支持し(うち一名は、少なくとも実行行為関係者については、有罪との意見と解される)、さらに、最終上告審においても、「諏訪メモなど」の証拠価値に関連して佐藤の一五日アリバイにつき前記のような判断が示されているほか、なお破棄差戻を主張する少数意見が付加されているという、これまでの裁判過程のうちに示唆されているものとみることができる。被告人の自白を重視し過ぎたということについても現時点においてみれば批判の余地がありうるであろうが、本件の捜査が行なわれた当時は新刑事訴訟法の施行されて間もない頃であつて、捜査官が新法の下での捜査の遂行方法につき十分習熟していなかつたというやむをえない事情も、少なくとも、過失の程度の評価においては、見落すべきではあるまい。さらに、いかなる証拠をいかなる時期において提出すべきかということについて、検察官の側に非難さるべき点があるかどうかということは、相手方(刑事被告人)の訴訟追行の態度とも関連して判断さるべきであろう。法廷に真実を顕出するため誠実に訴訟を追行すべき責務を負うことは、ひとり検察官についてのみならず、本質的には、被告人についても言いうることであること、ただ、刑事裁判の見地においては、被告人の側に、この点の訴訟追行の態度にいささか欠けるものがあつても、深くとがむべきでないことは、すでに、第一章第二節の六予想される反対意見の中で、述べたところである。しかしながら、当民事法廷の審判においては、原告らが国民の税金より損害の賠償を受くべき完全な資格があることを証明すべき責任を負担するのであるから、刑事裁判における原告らの訴訟追行の態度に、この見地から批判さるべきものがあつたとすれば、このこともまた、検察官の訴訟追行の態度が不公正として、或いは過失があるものとして違法視さるべきかどうかを判断するについて、当然、しんしやくさるべき事情の一つであるといわねばならない。このことは、訴訟追行態度の全過程について検討を要する問題であるが、さし当たつて、諏訪メモ等に限局して考察すれば、次のようにいうことができるであろう。すなわち、八月一五日団体交渉の席において、労使双方の側で記録がとられていたことは、団交列席者には知られていたことであつて、なんら秘密にされていたことではない。しかも、労働者(原告)側でとられた田中メモは第一審中すでに仮還付されており、その内容も、一五日団交の午前の最後が「31佐藤(中)人心刷新ノ追求出スE32」という記録で終わつているのであるから、佐藤の発言が最後に記録されているが故に佐藤が午前の団交の最後までいたと認めらるべきであるという主張は、これをする意思さえあれば、田中メモだけを根拠としてこれをすることもできたはずである。なお、この還付は、当時組合の執行委員長が交替していたところから、新執行委員長あてになされているが、これは、田中メモが組合の所有物件であることからとられた当然の措置であり、これを還付していること自体からみても、検察官がメモの存在や還付の事実をことさらに秘密にしておく意思であつたとは考えられない。同メモの返還当時杉浦らがすでに執行委員長の地位を失つていたが故に田中メモの利用が困難であつたというなら、裁判所に提出命令の申請をすることもできたはずである。労働者側のメモ録取者である田中秀教はもとより、西肇、諏訪親一郎ですらも、こと点につき原告らの側から証人として喚問することもできなかつたわけではない。メモの存在とこれに基づく立証の可能性を具体的に指摘し、裁判所にメモの提出命令を申請し、これらの者を証人として申請しさえすれば、裁判所が理由なくこれを拒んだとは考えられない。しかるに、原告らは刑事第一、二審(原)の終了するまで、かような主張、立証活動をなんらしていないばかりか、第一審法廷において鷲見証人が「佐藤君は最初激烈な言葉を交わして居りましたがその中居なくなつたと思つて居ります」と証言した際にすら、なんら適切な反対尋問をしていない。他面、諏訪メモも田中メモも、団体交渉の記録であるとはいえ完全速記というわけではなく、その重要性を国会の議事録などと同程度のものと評価すべきでないことはむろんのこと、諏訪メモに至つては、むしろ内部的な心覚えであつて会社側が外部に公表されることを希望しない意向を示していたというような事情があつたこと(たとえば、起訴強制事件における吉良慎平検事の証言、甲81P221等参照)も見落すべきではあるまい。さらに、そればかりでなく、検察の作用は、結局において行政であり、その時々の社会情勢や被告側の訴訟追行の態度等をも考慮に入れて、必要最小限度の証拠をもつて、時期を失せず、有罪判決を獲得することを目途として公訴を提起追行することは当然であるから、被告人の側から具体的に主張もせず立証活動もしようとしないような、問題について(諏訪メモを決定的証拠と評価する場合は格別であるが、そうでないかぎり)進んで立ち入らないとする態度をもつて訴訟を追行することは、とくにとがめらるべきことではなかろう。検察官がかような配慮から、諏訪メモの顕出によつて団体交渉の経過をいつそう詳細具体的に明らかにすることは、原告らの側から具体的な主張があり、メモの存在及びその記録内容に関連して争点が具体化した時期においてすれば足りると考えたとしても非難さるべきことではあるまい。なお、原告らがこの点に関する主張立証活動を怠つていたことは弁護人の怠慢に帰せらるべき問題に過ぎないとの意見は、国家償賠の請求にかかる民事裁判が、刑事裁判とは観点を異にし、原告らが刑事補償法による損失の補償を受けた上に、なお国民の税金より損害の賠償を受くべき完全な資格があるかどうかということを判断の対象とする訴訟であることを正当に認識しない意見というべきである。団体交渉に列席していなかつた弁護人は、これに列席していた原告らの側から申し出がなければ、メモの存在に気付かなかつたということは、或いはあるかもしれない。しかし、メモがとられていたことも、佐藤が最後まで発言していたことも(若しそれが真実であるならば)、団体交渉に列席していた原告らが外の誰よりも一番よく知つているはずのことである。若しも、団体交渉の経過と両メモとの関係が国会の議事経過と議事録との関係に匹敵するようなものであるならば(換言すれば、団交経過が問題となる場合にはまずメモを見るのが常識であるという程度にメモが原告らによつて重要視されていたものであるならば)、そしてまた、原告らか佐藤が最後までいたことを真に確信していたのであるならば、事態の自然の成り行きとして、遅くとも原二審(事実審)の終了する時までに、原告らの側からメモに関する具体的な主張立証活動が出るのがむしろ自然であろう。それが出なかつたということは、かえつて、原告ら自身、もともとは、メモによつて佐藤のアリバイが証明されるということにそれほどの期待をもつていなかつたか、若しくは佐藤が最後までいたことに十分確信をもつていなかつたことをおのずからのうちに示唆するものともみることができるであろう。

以上のような一切の事情を考慮に入れて判断すれば、検察官が刑事第一、二審において諏訪メモを法廷に顕出しなかつたことをもつて、ただちに不公正として非難することのできないのはもとより、かかる不公正な訴訟の追行方法により第一、二審裁判所の判断を誤らせたということもまた、ただちに断定することはできないものというべきである。少くとも団体交渉に関する記録を早期に法廷に顕出せしめることにより佐藤の一五日アリバイの成否を明確にする機会が失われたことについての責任の一部は、当民事法廷の見地においては、原告らの側にも帰せらべきであろう。

(2)  郡山警察署の来訪者芳名簿を法廷に顕出しなかつたことについても、諏訪メモについて(1)において述べたことと、ほぼ、同様のことをいうことができるであろう。

いうまでもなく、来訪者芳名簿中の問題の(昼の時間に当たる箇所の)斎藤千の記名は、自署ではなく、宍戸金一の代筆したものであるから、これが斎藤千の一三日アリバイ(一三日昼頃の時間に郡山にいたこと)の絶対的な証明になるものではない。しかも郡山市署に差入れに行つた際の状況について宍戸金一の供述(24.11.9保倉調書乙91・24・11・10保倉調書乙92、24.11.11山本調書乙93)と斎藤千の供述・主張とを比較してみると、アリバイの成否を決定する最も重要な差入れの点について、重要な食い違いがある。すなわち、宍戸の供述では差入れは昼食の差入れであり、宍戸が一足先に行き来訪者芳名簿に自分の名前と共に斎藤の名前を書き、斎藤は後から遅れて来たというのである。これに対し斎藤千の供述・主張では、差入れは朝食の差入れであり、その時同行したのは宍戸ではなく古川朝男であつたというのである。そして、当日斎藤が郡山市署に出かけたのは、午前八時頃、午後二時〜三時頃、午後四時頃の三回で、八時半頃朝の差入れから郡山分会に帰つた後は、午後一時頃昼食代りにパンを買いに出たほかは、ずつと、分会で声明書がき等に従事し、それから、午後二時〜三時頃抗議に出かけた時は村上光夫と一緒であつたというのであり(「一九五〇・八・一二供述書」甲10P255以下、一審最終陳述甲11P461)、その日宍戸と行動を共にしたことは一言も述べていない。差入れに行つた際の具体的状況の描写についてもかなり食い違いがある。また、斎藤が後から来署したことは受付巡査によつて確認されていない(被告第四準書P434(404)、同第五準書P664以下)。かような事情等から、検察官が斎藤、宍戸の双方の供述とも信用するに足らず、来訪者芳名簿もまた斎藤千の一三日アリバイを証明するに足らない証拠として評価したとしても、その判断が、裁判所の判断と検察官の判断との食い違いの原因となりうる諸事情より生ずるやむをえない食い違いの範囲を越えるほどに非常識、不合理なものということはできないであろう。また、かような評価を前提とすれば、一三日昼の差入れをしたことにつき斎藤本人すらなんらの主張をしていない状況の下で、検察官が来訪者芳名簿を法廷に顕出しなかつたことをもつて、一方的に不公正な態度として非難するには当たらないものというべきであろう。

もとより、斎藤千が八月一三日に何回か郡山市署を訪れたうちの一回について記憶を忘失したとしても、それだけではあえて不思議とするには足らないであろう。しかし、斎藤千は、前掲「一九五〇・八・一二供述書」、一審最終陳述及び控訴趣意書(甲78P1553)等において、極めて克明に当日の行動を記述しているばかりでなく、「古川と共に朝の差入れから郡山分会に帰り村上光夫らと逮捕された人の噂話などしている時宍戸金一らも黙つて聞いていた」と記述している(甲10P253、甲78P1553)くらいであるから、宍戸の存在や行動をまつたく忘れていたとは思われない。しかも原二審第一〇三回公判における斎藤本人の供述によれば山本検事から、とくに、一三日午前九時から午後三時までの間が疑わしいと言われて追及されたという(甲22P200)のに最も肝心の当日正午頃の行動については原二審の終了するに至るまで一言も述べていない。そればかりではなく、当審証人小沢三千雄の証言(41.5.21速記録P37)や、捜査段階当時すでに原告(当時の被告人)らの側によつて数多くの供述録取書が作成されていることなどから推しても、いかなる参考人が警察に呼ばれてどのような供述をして来たかについて周到な情報網が張り廻らされていたことがうかがわれるので、宍戸が警察に呼ばれていかなる供述をしたかということについても、弁護人らにもその情報が伝えられていたと推測され、そうすれば、仮に斎藤本人が昼の時間の差入れの事実を忘れていたとしても、その記憶を喚起する手段、手掛りがありえたはずである。もとより宍戸を証人として申請することもできたはずである。しかるに、原告らは刑事第一、二審の終了するまで一三日昼の時間の差入れに関しなんら具体的主張をしておらず、右書類の顕出を原告らの側から進んで求めた事実もうかがわれず、八月一三日の郡山における斎藤千の行動につき証人として申請したのは村上光夫であつて、宍戸を証人として申請した形跡がない。たしかに、裁判所が職権で取り寄せの決定をした書類が検察庁の倉庫内に存在しながら、これらの書類を法廷に顕出しなかつたということは、非難に値することであろう。しかし、取寄は、もともと、原二審裁判所が職権でこれを行なおうとしたもので、検察官の側はもとより、原告(当時の被告人)らの側も進んでその取寄を求めたものでないこと、そしてその取寄が不能に帰した旨の裁判長の告知に対し原告らの側からもなんらの発言をせず、さらに進んでその所在を突きとめる努力、熱意を示した形跡がないこと、これらの書類が法廷に顕出されなかつたのは、上級検察庁と下級検察庁との間及び検察庁と警察署との相互の連絡努力の不十分によることで、その怠慢は非難さるべきであるとしても、ことさらにこれらの書類を隠匿する悪意があつたとは考えられないこと(山口一夫当審証言41.2.26速記録P131〜143)、斎藤千自身が一三日昼の時間に差入れに行つたということは一言も主張しておらず、来訪者芳名簿等が斎藤千の一三日アリバイを証明するに足らないとする検察官の判断がいちがいに非常識、不合理なものとはいいえないこと、以上一切の事情を総合して考察すれば、当民事法廷の見地においては、検察官が来訪者芳名簿等を法廷に顕出しなかつたことをもつて、一方的に不公正として非難することのできないのはもとより、かかる不公正な措置により第一、二審裁判所の判断を誤らせたということもまた、ただちに断定できないものというべきである。なお、来訪者芳名簿の問題の箇所に符箋を貼らせた措置も妥当といいえないことはむろんであるが一見して、斎藤千の名前を代筆した宍戸本人がその旨の説明書きを添付したに過ぎないことがわかるようなものであつて、もとより証拠の変造や偽造に当たる行為でないことは明らかであるから、これを違法な措置と非難するに値しないものというべきである。

(3)  以上に述べたことろを要約すれば、諏訪メモにしても、来訪者芳名簿にしても、これらの証拠がそれ自体で、(或いは他の証拠と合わせて)原告らの側に決定的に有利であるとの評価が唯一絶対のものであつて誰の目にも明らかであるというならば、検察官がこれを法廷に顕出しなかつたことは、正に、不公正として非難さるべきことであるが、この点の評価には差異がありえて、たとえ裁判所の判断と検察官の判断とは食い違いがある場合でも、その食い違いが両者の判断に差異を生ずる原因となる諸事情より生ずるやむをえない食い違いの範囲を越えるものと認められない場合には、これらの証拠が原告らに有利であるとの評価が唯一絶対のものであることを前提として、ただちに、検察官の訴訟追行方法を不正として非難することはできないということである。しかしながら、本件において検察官の訴訟追行の方法が原告らの側から不公正の疑いをかけられたことについては、まつたくの理由がなかつたというわけではない。諏訪メモや、来訪者芳名簿のように、被告人らの立場に立てば一応被告人らが、自己に有利な証拠と評価し利用することがもつともと思われるような証拠は、適当な時期に、被告人らにこれを利用する機会を与えておきさえすれば、そしてそのことを記録上明らかにしておきさえすれば、今日、検察官が原告らからうけているような不公正の疑いを避けることはできたはずである。この意味において これらの証拠の取扱に関する検察官の措置が、たとえこの点につき、悪意がなかつたにせよ、また、たとえ客観的評価において不公正とは断定しえないものであるにせよ、その結果と外形において、不公正の疑いをかけられてもやむをえないとされる点があつたことは、否定出来ないところであろう。換言すれば、これらの措置は、原告らの側からてみ、不公正の疑いをかけたことも一応無理からぬというようなものであつたことは、これを認めねばならないであろう。そもそも、憲法的見地における適正(正当)手続の保障とは、単にめんみつな検討の結果による客観的評価において不公正とは断定できない手続であれば足りるというものではなく、その公正であることが外観上明らかに国民によつて看取されるような手続、換言すれば国民の側からみて、外形上、いやしくも不公正を疑われることのないような手続でなければならないものと解すべきである(「正義は単に行なわれたというだけでは足りず、明らかに、疑う余地なく正義が行なわれたことが看取されねばならない」との英米法の原則が想起さるべきである)。本件において検察官の措置に違法のかどがあつたとすれば、正に、その点にあつたというべきであろう。しかしながら、こと意味における違法な措置により原告らが被つたかもしれない損害は、いわゆる白か黒かの判断において検察官が不合理、非常識な誤りを犯し、公訴を提起追行したことにより原告らの被つた損害とは別種のものであるのはもとより、検察官が諏訪メモ等を隠匿するという不公正な措置によつて、裁判所に誤判せしめたことによる損害とも別個のものである。すなわち、その損害とは、もつぱら、原告らがまつたくの無実であつたということの証明ができない場合であつても、憲法上享受するはずの、外観上もいやしくも不公正を疑われることのない手続によつて取り扱わるべき利益を侵害されたことによる損害というべきである。

(当裁判所の判断)

右の反対意見のはじめの部分は当裁判所の見解とおなじであるから、これについては、なにも言う必要はない。その個々の論点について逐一説明すればつぎのとおりである。

(1)  諏訪メモについて

まず、反対意見は、

たとえば諏訪メモについていえば、この証拠がそれだけで(或いは他の証拠とあいまつて)佐藤一の一五日のアリバイを絶対的に証明するものである場合は格別であるが、この点の評価には差異がありうることはこれまでの刑事裁判過程自体がすでにそのことを示している。

と言う。しかし、諏訪メモがそれだけで(或いは他の証拠あといまつて)佐藤一の一五日のアリバイを絶対的に証明するものであるなどということは、第二章以下の論証のどこにも言われていないことである。絶対的証明ということばの意味は厳格に解するかぎり、そのようなものはないであろう。しかし、諏訪メモが佐藤一の八月一五日の午前午後にわたる行動についての証拠の総体のなかの一環として、常識的な意味で、一つの決定的な要素になつていることは、第二章でくわしく論証したとおりである。その大すじをのべれば、つぎのとおりである。

諏訪メモを見ても田中メモを見ても、おなじ佐藤一の発言の記載で午前の団交の記録がおわつている(すなわち、たがいに無関係に正反対の立場から作られた二つの記録がこの点で一致している)。しかも、諏訪メモの筆者である西肇が「最後に佐藤一が相当長く発言し、私の記録がおわつたとき午前の交渉がおわつたように記憶しています」と供述している(24.10.29吉良調書)。西肇は当時東芝松川工場事務課長で佐藤一とは正反対の立場に立ち、このようなことについて嘘をつくはずのない人である。この三つの証拠をならべて見れば、よほど特別のことがないかぎり、佐藤一が午前の団交の最後までいたことは相当たしからしいと考えるのが普通の考えであろう。この考えをやぶるようなはつきりした証拠がほかにあればべつであるが、そのような証拠はひとつもないのであり(第二、三章)、むしろこれを裏づける証拠が数多く存在する。つまり、佐藤一の午後の行動についての証拠(第二章第六節)はすべて右にのべた普通の考え方が正しいことをはつきり裏づけている。これでどうして諏訪メモとその関係証拠が佐藤一のために有利な証拠でないと言えるのだろうか。

検察官が、諏訪メモは、被告人にとつて有利でも不利でもないと判断していたとすれば(差戻後第二審検察官意見要旨甲42P247)、それは、右にのべた意味で、非常識かつ不合理である。なお反対意見は、刑事事件の「裁判過程」がそうでないことを「示している」というが、そのようなことはありえないことである。当民事事件の争点については、当裁判所が独立に判断しなければならないのである(第一章第二節参照)。

つぎに反対意見は、

かような場合、終局において、検察官の判断と、裁判官の判断とが食い違つても、その食い違いが両者の判断に差異を生ずる原因となりうを諸事情(第一章第二節の六予想される反対意見の中で述べた諸事情)より生ずるやむをえない範囲を越えるものでないと認められる場合には、単に裁判官の終局的判断が検察官の判断と異なるということだけを前提としで、ただちに、検察官がこれを法廷に顕出しなかつたことを不公正として非難すべきではない。

と言う。しかし、本判決理由第二章から本章にいたるまでのあいだ「単に裁判官の終局的判断が検察官の判断と異なるということだけ」を根拠とする論証はどこにもない。本判決理由の論証は、すべて第一章第二節であきらかにした問題点の解明なのであつて、裁判官と検察官の判断のちがいというようなことを問題にしているのではない。

諏訪メモとその関係証拠を法廷に顕出しなかつたことが検察官として真実義務にそむき、公正な職務の遂行と言えないことは、本章第二節第二でくわしく説明したとおりである。

つぎに反対意見は、

そればかりではなく、個々の証拠をいかに評価し、どの程度重視するかということは、事案全体の評価や立証の重点を何処において訴訟を追行すべきかということの考慮等とも密接に関連するものである。たとえば、佐藤一の実行行為に関する供述を含む赤間自白及び浜崎自白、佐藤が一五謀議に出席したことの供述を含む太田自白、並びに本田アリバイの不成立等を深く確信する検察官の立場においては、原告(刑事裁判当時の被告人)らの側からもメモに関しなんらの具体的主張、立証活動を行なつていない状況の下で、諏訪メモの重要性やこれを法廷に顕出することの必要性をそれほどに評価しなかつたとしても、これを深くとがめることはできないであろう。もとより、現時点において批判的に見れば、被告人の自白を証拠の主体として訴訟を追行したことについては批判の余地があるであろう。しかし、これらの自白等を検察官が深く確信し、諏訪メモをもつて佐藤一の無実を証明する決定的証拠と評価しなかつたことについては、それ相応の理由のあることであり、たとえその判断が、刑事裁判において、終局的に是認されなかつたとしても、その判断は両者の判断に食い違いを生ずる原因となりうる諸事情より生ずるやむをえない範囲をこえると認められほどに非常識、不合理なものでないことは、おおむね、それぞれの該当部分における予想される反対意見の中で述べたとおりである。また、このことは刑事第一、二審裁判所が、赤間、浜崎、太田らの各自白の任意性、信憑性を是認すると共に本田アリバイの成立を否定し、諏訪メモの提出された原上告審においても一二名の裁判官中五名の裁判官が原二審の有罪意見を支持し(うち一名は、少なくとも実行行為関係者については有罪との意見と解される)、さらに、最終上告審においても、「諏訪メモなど」の証拠価値に関連して佐藤の一五日アリバイにつき前記のような判断が示されているほか、なお破棄差戻を主張する少数意見が付加されているという、これまでの裁判過程のうちに示唆されているものとみることができる。

と言う。要するに、検察官は、赤間および浜崎の自白、太田自白の真実性、本田アリバイの不成立などを「深く確信して」いて、それには相応の理由があつたのであるから、被告人側からメモについてなんらの具体的主張、立証もない状況のもとで、「諏訪メモの重要性とこれを法廷に顕出することの必要性をそれほどに評価しなかつたとしても、これを深くとがめることはできないであろう」ということである。しかし、太田自白や赤間および浜崎自白を信用することが、いかに不合理であるかということが、第二章以来の論証の結論なのであり、それは本章第一節でまとめて説明したとおりである。検察官がこれを信用したことがまちがいだつたのである。検察官がこれを「深く確信していた」という事実は、すこしも、検察官がアリバイの関係証拠を押収または録取していながらこれを法廷に顕出しなかつたという事実を正当化するものではない。右の見解は、本判決理由第二章以来の論証を無視するものであり、その前提があやまつている。

なお反対意見は「これまでの裁判過程のうちに示唆されているものとみることができる」というが、刑事事件の「裁判過程」のうち、当民事事件の争点となつている事実について、当民事裁判所に対してなにかが「示唆されている」というようなことは、ありえないことである。「示唆されている」ということの意味が当裁判所を拘束するというような強い意味でなく、その判断を方向づける一つの資料となりうる、という程度の弱い意味であるとしても、それはまちがいである。当民事事件の争点は、当裁判所が独立に裁判しなければならない。

それだけでなく、刑事事件の裁判過程そのものを、全体として見れば、その大すじは、けつして反対意見のなかで言われているようなことをしめしたり「示唆」したりしていない(ただし、もちろんこれは当裁判所の判断の形成とは無関係である)。むしろ、その逆である。

刑事事件の第一、二審では、右の本章第二節第二ないし第五にかかげた証拠はいつさい提出されていない状態のもとで有罪の判決がなされた。そして、事件が第一次上告審に係属しているうちに、偶然の機会に諏訪メモが押収されていることが弁護人らにわかり、国会などでも問題になつたすえ、諏訪観一郎に還付されたのち、弁護人の申請によりこれが最高裁判所に取り寄せられた。そして第一次上告審では、太田自白について、「太田自白はその内容を精査すれば、これが同一人の供述かと疑われる程、供述変更の跡が目まぐるしく、中には原判決が明らかに虚偽、架空と断じた事項すら含んでおり、甚だ不合理な自白であることを否定することでできない。ヽヽヽ(中略)ヽヽヽ太田自白における右のような供述の変更や虚偽は、これを被告人太田が他意あつて殊更に事実を曲げて供述したことによるものとみるべき節もないとすれば、それは、同人が、あるいは、自己の経験しなかつたことや記憶の薄れたことについて、取調官から尋ねられた際、ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるのではないかとの疑さえあつて(第二審第六〇回、第六六回公判における証人三笠三郎の各供述参照)、どこまでよく真実を述べたものか、またどの供述に真実があるのか、その判断に苦しまざるを得ない。(乙54P130)と判断され、佐藤一の八月一五日のアリバイについては「次に、当裁判所の提出命令により提出され、当裁判所が領置したいわゆる『諏訪メモ』(証一三一号の一)は、当裁判所において公判にこれを顕出したので、事実審におけるが如き証拠調の方法は採らず、従つて当裁判所が直ちにこれを事実認定の証拠とすることはできないとしても、少くとも原判決の事実認定の当否を判断する資料に供することは許されるものと解すべきところ、同メモの記載によれば、昭和二四年八月一五日午前一〇時三〇分より東芝の団体交渉が開かれ、被告人佐藤一もこれに出席したが同人の資格問題が論争となり、結局会社側で納得されるに至つて、同人の発言は相当長く継続し、午前中の最後頃まで発言していたのではないかと窮われる節もあつて、この点をも参酌するならば、太田自白における被告人佐藤一が右団体交渉から退席した時刻に関する供述は殊に疑わしいことになり、旁々原判決が第一審第一七回公判における証人鷲見誡三の供述を殆どただ一つの拠り所として、これと牴触する諸証言(第一審第六七回公判における証人斎藤正、同紺野三郎、同第二二回公判における証人阿部明治、同遊佐寅三、同七二回公判における証人西山スイ、同本田基、第二審第二一回公判における証人小山安稔の各供述、等。)を悉く排斥し、同被告人は同日午前一一時一五分松川駅発の下り列車に間に合う時刻に団体交渉の席を出たとの原判断には疑なきを得ない」(乙45P131)と判断され、さらに加藤自認、大内自白もその信用性に疑いがあるものとされ、これらの自白、自認を証拠として認められていた八月一六日の加藤の連絡謀議はその内容自体にも不合理な点があるとされて、その存在が疑われ、結局「ヽヽ本件実行行為、アリバイ工作は原判決認定の謀議、殊に国鉄側と東芝側との連絡謀議なくしては到底考えられないところのものである。従つて、若しこれらの二つの連絡謀議の存在に疑があるとすれば、それは自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実全体の認定にまで影響を及ぼすものと考えざを得ない。ヽヽヽ(中略)ヽヽヽ以上考察し来たつた如く、原判決認定の判示第三、(二)および同(三)の謀議には、二つともその存在に疑があつて、原判決中被告人らに関する部分は、結局、すべて、判決に影響があつてこれを破棄しなければ著しく正義に反する重大な事実誤認を疑うに足りる顕著な事由があるものといわなければならない」(乙45P133)との判断のもとに原第二審判決が破棄され、事件は仙台高等裁判所に差戻された。そして、差戻後の第二審では諏訪メモを含む本章第二節第二、第四、第五にかかげた証拠がその他の関係証拠(差戻後第二判決が「新証拠」と呼んでいるもの)とともに裁判所の勧告により法廷に顕出され(ただし第三の来訪者芳名簿とその関係証拠は最後まで出されなかつた)、差戻後第二審裁判所は右の「新証拠」を含む証拠の全体を検討した結果、原告ら全員を無罪と判断し、この判断は結局再上告審で支持され、結局、原告ら全員の無罪が確定したのである。

したがつて、刑事事件の裁判過程は、全体として見れば、その大すじは、すこしも当裁判所の判断と矛盾するものではない。当裁判所は、もちろん、刑事事件の裁判過程とは無関係かつ独立に当民事事件の争点を審理判断したのであるが、その結果、右の刑事事件の裁判過程の大すじと矛盾しない結論に達したのである。

つぎに反対意見は、

被告人の自白を重視し過ぎたということについても現時点においてみれば批判の余地がありうるであろうが、本件の捜査が行なわれた当時は新刑事訴訟法の施行されて間もない頃であつて、捜査官が新法の下での捜査の遂行方法につき、十分習熱していなかつたというやむをえない事情も少なくとも、過失の程度の評価においては見落すべきではあるまい。

と言う。しかし、第二章以来の論証は、太田自白、赤間自白などの自白の虚偽架空性と、これを信用することの不合理性を証拠にもとづいて具体的に論証したのであつて、「自白を重視しすぎることの可否」というような一般的なことはすこしも問題にしていない。真実の自白ならばどのように重視してもよいのである。したがつて、旧刑訴と新刑訴の区別というようなことは右の論証にはなんの関係もないことである。

つぎに反対意見は、

さらに、いかなる証拠をいかなる時期において提出すべきかということについて、検察官の側に非難さるべき点があるかどうかということは、相手方(刑事被告人)の訴訟追行の態度とも関連して判断さるべきであろう。法廷に真実を顕出するため誠実に訴訟を追行すべき責務を負うことは、ひとり検察官についてのみならず、本質的には、被告人についても言いうることであること、ただ、刑事裁判の見地においては、被告人の側にこの点の訴訟追行の態度にいささか欠けるものがあつても、深くとがむべきでないこはすでに第一章第二節の六予想される反対意見の中で述べたところである。しかしながら当民事法廷の審判においては原告らが国民の税金より賠償を受くべき完全な資格があることを証明すべき責任を負担するのであるから、刑事裁判における原告らの訴訟追行の態度に、この見地から批判さるべきものがあつたとすれば、このこともまた、検察官の訴訟追行の態度が不公正として、或いは過失があるものとして違法視さるべきかどうかを判断するについて、当然、しんしやくさるべき事情の一つであるといわねばならない。

と言う。しかし、本章第一節でのべたとおり、検察官は、単なる訴訟当事者でなく、公益の代表者として、法廷に真実を顕出する職務を持ち、その目的のため強制的に証拠を集める権限を与えられ、その権限を行使した結果、諏訪メモ、田中メモ、その他の証拠を手にしていたことを忘れてはならない。かりに被告人がその主張立証のなかで、具体的にこれにふれていなくてもそのことによつて検察官の右の職務はすこしも免除されないのである。右の反対意見は、結局、検察官が、諏訪メモ、田中メモ、来訪者芳名簿など、被告人に有利な証拠を押収し、手にしている場合でも、被告人がこれに気づいて、何か言わないかぎり黙つて知らぬふりをしていてよい、ということになる。このような見解は、公正なるべき刑事裁判の本質に反するものであつて、とうてい受け入れることができない。

しかも、このことについて、被告人の側からまつたく主張立証がなかつたというわけではない。被告人側は、メモのことは言わないものの、佐藤一が午前の団交の最後(正午)までいたことを主張しその主張との関係で午前の団交の経過を問題にし、この点についての証人として、紺野三郎、斎藤正、阿部明治、遊佐寅三の四人の証人を申請し、この四人はいずれも佐藤一は午前の団交の最後までいたと思うという趣旨の証言をしていたのである。このように、団交の経過が法廷で問題になつているのに、その団交の経過についての記録を二つも検察官が押収し、かつこれについて前述の西肇らの供述を録取していながら、これを法廷に顕出せず、その存在さえも裁判所に知らせなかつたのは、どう考えても公正なやりかたとは言えない。まして、この点についての検察側の唯一の証人である鷲見誡三が、午前の団交の経過について諏訪メモの記載に明白に反するまちがつた証言をしていたのである(本章第二節第二)。この鷲見証言の明白なあやまりを正すためにも検察官は諏訪メモを法廷に出さなければならなかつたのである。諏訪メモを法廷に顕出しなかつたことは、右にのべたように、二重、三重の意味で検察官の真実義務に違反する行為であり、この重大な職務違反の責任を、被告人がこれについて具体的主張立証をしなかつた(それは被告人、弁護人がこれに気づかなかつたことを意味する)という理由で、被告人の側に転嫁することは正しくない(なおこの点についてはのちに本節(3)でものべる)。

つぎに反対意見は、

このことは、訴訟追行態度の全過程について検討を要する問題であるが、さし当たつて諏訪メモ等に限局して考察すれば次のようにいうことができるであろう。すなわち、八月一五日団体交渉の席において、労使双方の側で記録がとられていたことは、団交列席者には知られていたことであつて、なんら秘密にされていたことではない。しかも労働者(原告)側でとられた田中メモは第一審中すでに仮還付されており、その内容も、一五日団交の午前の最後が「31佐藤(中)人心刷新ノ追求出スE32」という記録で終わつているのであるから、佐藤の発言が最後に記録されているが故に佐藤が午前の団交の最後までいたと認めらるべきであるという主張は、これをする意思さえあれば、田中メモだけを根拠としてこれをすることもできたはずである。

と言う。「佐藤の発言が最後に記録されているが故に佐藤が午前の団交最後までいたと認めらるべきである。という主張は、これをする意思さえあれば、田中メモだけを根拠としてこれをすることもできたはずである」ということは、そのとおりである。田中メモだけを根拠としてさえ、被告人側が右のような主張をすることが可能だつたのである。だからこそ田中メモをすでに、押収してこれを手にしている検察官は、相手方にそのことを告げ、その注意をうかがすべきだつたのである。田中メモだけを根拠としてさえ右のような主張をすることが可能だつたのに、相手方が気づかなければ、だまつて知らぬふりをしていてよいということはない。そのようなやり方は公正とは言えないのである(後述(5)参照)。

そして、これに、おなじく佐藤一の発言で午前の記録をおわつている諏訪メモ「最後に佐藤一が発言し、私の記録がおわつたとき午前の交渉がおわつたように記憶します」という諏訪メモの筆者事務課長西肇の供述調書、「佐藤一が八月一五日八坂寮で昼食を食べた」という趣旨の寮管理人木村ユキヨの供述調書、「午後一時ちかく佐藤一が八坂寮玄関口で靴をはいている姿を見た」という執行委員紺野三郎の供述調書、「午後一時すぎ、組合事務所へ行つたところ、佐藤一がいて、午後二時二二分松川発の汽車で青年部員五名とともに福島市へ宣伝ビラをはりに行くとき、佐藤一は組合事務所から宣伝ビラを自転車にのせて松川駅まで送つて来てくれた」という青年部員本田基の供述調書およびこれを一部裏づける事故簿および高橋勝美の供述調書(これらは、すべて当時検察官の手持ちしていた証拠である)が加えられ、しかも諏訪メモの記載によつて、この点についての検察側の唯一の証人である鷲見誡三の証言のあやまり(第二章第四節(二))があきらかにされれば、佐藤一のアリバイは、それだけでほとんど確実に証明されてしまうのである。

東芝側の執行委員だつた原告ら(とくに杉浦)が田中メモのことを思い出さなかつたのは、たしかにうかつだつたと言えるであろう。しかし、当時松川工場では、人員整理反対斗争のため相当長期にわたり、ほとんど連日のようにおなじような会合がひらかれていたのである。そのようなごたごたした状況のもとで、とくにそのとき記録を取つたことを思い出さなくても、またはその記録の重要性に思いいたらなくても、それほど責めるべきことはではないであろう。

つぎに反対意見は、

なお、この還付は、当時組合の執行委員長が交替していたところから、新執行委員長あてになされているが、これは、田中メモが組合の所有物件であることからとられた当然の措置であり、これを還付していること自体から見ても検察官がメモの存在や還付の事実をことさらに秘密にしおく意思であつたとは考えられない。同メモの返還当時、杉浦らがすでに執行委員長の地位を失つていたが故に田中メモの利用が、困難であつたというなら、裁判所に提出命令の申請をすることもできたはずである。労働者側のメモ録取者である田中秀教はもとより、西肇、諏訪親一郎ですらも、この点につき原告らの側から証人として喚問することもできなかつたわけではない。

メモの存在とこれに基づく立証の可能性を具体的に指摘し、裁判所にメモの提出命令を申請し、これらの者を証人として申請しさえすれば、裁判所が理由なくこれを拒んだとは考えらない。

と言う。しかし、田中メモは、昭和二五年九月八日(第一審検察官論告がおわつたころ)に松川工場労組の新執行部に仮還付されたのであり、このことは、当時刑務所にいた原告らにもまた弁護人にもわからなかつたのである。したがつて提出命令の申請などができるはずはない。前述のとおり、このことで原告らを責めるのはあやまりである。責められるべきは、すでに諏訪メモ、田中メモその他関係証拠を押収または録取して、手にしていた検察官である。

また、西肇を証人に申請しなかつたことで責められるべき者も被告人、弁護人でなく、むしろ検察官である。西肇は、諏訪メモAの八月一五日午前の団交の記録の後半部の筆者である。したがつて、佐藤一のアリバイの関係で午前の団交の経過が問題になれば、まつさきに喚問されなければならない人である。そして当時そのことを知つていたのは、会社側の鷲見、西、諏訪のほかは、西と諏訪を取り調べた検察官だけである(労組側の出席者は鷲見とのやりとりに気をとられているのであるから、諏訪や西が鷲見のうしろでなにをしていようと、あまり気にもとめないであろう)。ところが、西が、八月一五日の団交のことで法廷に喚問されたのは、一〇年以上経過した差戻後の第二審になつてからであつて、第一、二審ではついに喚問されなかつたのである。

それだけではない。前にものべたおり捜査段階の昭和二四年一〇月二七日に辻検事は、鷲見誡三を取り調べた。そのときの鷲見の供述は、「八月一五日午前の団交でははじめに杉浦が発言し、つぎに佐藤一が発言しようとしたので、その発言資格をとがめたが、松川労組から委任状を出すというので、その発言を認めたところ、佐藤は巻線係の人員整理が不当だという趣旨の発言をし、つづいて太田が前年一二月に会社側が労組に渡した馘首はしないという確約書を持ち出してこれについて発言し、それで午前の団交をおわつた。佐藤一の発言は、右の発言だけだつたので、その後はいたかどうかわからない」という趣旨の供述をした(鷲見10・27辻調書)。そして、この供述と諏訪メモ、田中メモの記載をくらべて見ると、鷲見の右の供述が明白にまちがつていることがわかるのである。すなわち、諏訪メモAを見ると、右の佐藤一の巻線係についての発言につづいて、杉浦と鷲見の問答が二ページにわたつてつづき、つぎに佐藤一の約一ページ半にわたる発言が書かれていて、それで午前の団交の記録がおわつている。田中メモの記載も大体これに対応するものである(第二章第二節対照表参照)。しかも、鷲見が言つている「馘首はしないという確約書」についての問答は、田中メモの記載によると午後の団交のはじめにおこなわれたものである。つまり、八月一五日午前の団交の経過についての鷲見の供述(したがつてその記憶)がまちがつていたことは捜査段階からすでに明白だつたのである(第二章第四節(二))。

一方、一〇月二九日には吉良検事が西肇を取り調べ、西が、「最後に佐藤一が相当長く発言し、私の記録がおわつたとき午前の交渉がおわつたように記憶します」と供述したことは前述のとおりである。ところが、第一審でこのことについて検察官の申請により喚問されたのは、右のように捜査段階ですでに明白にまちがつた供述をしていた鷲見だけであり、西はついに差戻前には喚問されなかつた(そして鷲見が大体右とおなじまちがつた証言をしたのに検察官が諏訪メモによつてこれを正さなかつたことは前述のとおり―第二章第四節(二))。つまり、捜査段階ですでに、諏訪メモの記載に反する明白にまちがつた供述をしていた鷲見を法廷に喚問してそのとおりの証言をさせ、諏訪メモの記載に合致する供述をしていた西は喚問しなかつたのである。これは、つまり、あきらかにまちがつた証拠を法廷に顕出したことにほかならないのであり、このこと自体重大な職務違反である。

つぎに反対意見は、

しかるに、原告らは第一、二審(原)の終了するまで、かような主張、立証活動をなんらしていないばかりか、第一審法廷において鷲見証人が「佐藤君は最初激烈な言葉を交わして居りましたがその中居なくなつたと思つて居ります」と証言した際にすら、なんら適切な反対尋問をしていない。

と言うが、これこそ新刑訴が施行されたばかりのころのことで、尋問技術の未熟をものがたるものであろう。このようなことは、あまり問題になることではない(なお、鷲見の右の証言については第二章第四節(二)参照)。

つぎに反対意見は、

他面、諏訪メモも田中メモも、団体交渉の記録であるとはいえ完全速記というわけではなく、その重要性を国会の議事録などと同程度のものと評価すべきでないことはむろんのこと、諏訪メモに至つてはむしろ内部的な心覚えであつて会社側が外部に公表されることを希望しない意向を示していたというような事情があつたこと(たとえば、起訴強制事件における吉良慎平検事の証言、甲81P221等参照)も見落すべきではあるまい。

と言う。諏訪メモと田中メモが完全速記でなく、要領筆記であるから記録されなかつた発言もあつたかもしれないということは、第二章でくりかえしてのべたとおりであり、第二章の論証はこのことを前提とした上での論証である。また、諏訪メモや田中メモを「国会の議事録などと同程度のもの」と考える人は、だれもいないであろう。反対意見で言われていることが、国会の議事録などと同程度のものでなければ、団交のメモなどは、刑事事件の証拠にならない、という意味だとすれば、それはあまりにも極端すぎる見解であつて、とうてい受け入れることができない。これらのメモが、どの程度会議の経過を正確に伝えているかは、その作成の状況、内容、内容の比較対照などにより、具体的に検討すべきである(第二章)。

つぎに諏訪メモが外部に公表されることを会社側が希望しない意向をしめしたことは事実であろう。しかし本件で問題とされている刑事事件は、人の生死にかかわる重大事件である。そのような重大事件の審理の必要よりも優先して考慮しなければならない会社の機密というものがあるべきはずはない。

つぎに反対意見は、

さらに、そればかりでなく、検察の作用は、結局において行政であり、その時々の社会情勢や被告人側の訴訟追行の態度等をも考慮に入れて、必要最小限度の証拠をもつて、時期を失せず、有罪判決を獲得することを目途として公訴を提起、追行することは当然であるから、被告人の側から具体的に主張もせず立証活動もしようとしないような問題について(諏訪メモの決定的証拠と評価する場合は格別であるが、そうでないかぎり)進んで立ち入らないとする態度をもつて訴訟を追行することは、とくにとがめられるべきことではなかろう。検察官がかような配慮から、諏訪メモの顕出によつて団体交渉の経過をいつそう詳細具体的に明らかにすることは、原告らの側から具体的な主張があり、メモの存在及びその記録内容に関連して争点が具体化した時期においてすれば足りると考えたとしても非難さるべきことではあるまい。

と言う。しかし、検察官の法廷での真実義務は、反対意見の言うような行政的配慮によつて左右されるべき性質のものではない。検察官が諏訪メモとその関係証拠を第一審法廷で顕出しなければならなかつた理由は、本章第二節第二でくわしくのべたから、くりかえさない。なお、反対意見は、メモの顕出は「原告らの側から具体的な主張があり、メモの存在及びその記録内容に関連して争点が具体化した時期においてすれば足りると考えたとしても、非難さるべきことではあるまい」と言うが、原告らはメモの存在を知らなかつたのであるから「メモの存在及びその記録内容に関連して争点が具体化した時期」などは、いくら待つていても来るはずはないのである。むしろ、これらの証拠を押収している検察官の方から、これについて被告人、弁護人の注意を喚起し、これについての弁論、立証をうながさなければならないのである。

何度もくりかえすように、検察官が被告人に有利な証拠を押収して、手にしていながら、被告人、弁護人が気づかなければ黙つて知らぬふりをしてよいという見解は刑事法廷における検察官の職務をまつたく忘れた見解である。

つぎに反対意見は、

原告らがこの点に関する主張立証活動を怠つていたことは弁護人の怠慢に帰せらるべき問題に過ぎないとの意見は、国家賠償の請求にかかる民事裁判が、刑事裁判とは観点を異にし、原告らが刑事補償法による損失の補償を受けた上に、なお、国民の税金より損害の賠償を受くべき完全な資格があるかどうかということを判断の対象とする訴訟であることを正当に認識しない意見というべきである。

と言うが、反対意見の言うような「意見」があるとしても、それは、本判決理由の論証とは、関係のないことである(なお、刑事補償法と国家賠償法の関係については第一章第二節参照)。

つぎに反対意見は、

団体交渉に列席していなかつた弁護人は、これに列席していた原告らの側から申し出がなければ、メモの存在に気付かなかつたということは或るいはあるかもしれない。しかし、メモがとられていたことも佐藤が最後まで発言していたことも(若しそれが真実であるならば)、団体交渉に列席していた原告らが外の誰よりも一番よく知つているはずのことである。若しも、団体交渉の経過と両メモとの関係が国会の議事経過と議事録との関係に匹敵するようなものであるならば、(換言すれば、団交経過が問題となる場合にはまずメモを見るのが常識であるという程度にメモが原告とによつて重要視されていたものであるならば)、そしてまた、原告らが佐藤が最後までいたことを真に確信していたのであるならば、事態の自然の成り行きとして遅くとも原二審(事実審)の終了する時までに、原告らの側からメモに関する具体的な主張立証活動が出るのがむしろ自然であろう。それが出なかつたということは、かえつて、原告ら自身、もともとは、メモによつて佐藤のアリバイが証明されるということにそれほどの期待をもつていなかつたか、若しくは佐藤が最後までいたことに十分確信をもつていなかつたことをおのずからのうちに示唆するものともみることができるであろう。

と言う。しかし、右の見解は、人間の記憶力をあまりに過大に考えるものであろう。すでにのべたとおり、当時、東芝松川工場は、人員整理反対斗争中で、団交を要求する交渉、団交、職場交渉、組合大会、執行委員会などの会合が、相当長期にわたり、ほとんど毎日のように開かれ、東芝側の原告らはいそがしくこれらの会合に出席して、ほかの人の発言を聞いたり、自分も発言したりしていたのである。このようなごたごたした状況のもとで、だれがどの会合にいつまで出ていたか、どの会合がだれの発言で打ち切られたか、というようなことをいつまでもおぼえていられるものではないのである。自分のことでも忘れたり記憶の混乱をおこしてわからなくなつたりするのが普通であろう。もし八月一五日午前の団交が佐藤一の発言で打ち切られたならば、だれかがそれをおぼえているはずだということが言えるならば、まつたく同様に、右の団交が佐藤一以外の者の発言で打ち切られたならば、だれかがそれ(最後の発言者)をおぼえているはずだ、とも言えるのである。そのようなことは、右のようなごたごたした状況のもとでは、二、三ケ月もたてば、だれもはつきりおぼえていないのがむしろ普通なのである。八月一五日午前の団交でだれが一番最後に発言したか、すなわち午前の団交がだれの発言で打ち切られたか、ということについて具体的に供述しているのは、刑事事件の全記録を通じ、西肇ただひとりである。そして西は「最後に佐藤一が相当長く発言し、私の記録がおわつたとき午前の交渉がおわつたような記憶します」と供述しているのである。

つぎにこれもすでにのべたことであるが、反対意見の言うように「団体交渉の経過と両メモとの関係が国会の議事経過と議事録との関係に匹敵するようなものである」などと考える人はだれもいないであろう。団交のメモが団交の経過をどの程度正確に伝えているかは、その作成の事情(職務として作つたかどうか)、目的、およびその内容(記載されていることの前後の脈絡、全体の大すじなど)を考慮して判定すべきであり、メモが二つ以上あるときは、そのほかに、両者の比較対照ということが有力な判定方法となる(第二章第二節)。「国会の議事録」に匹敵する程度のものでなければ、団交のメモなどは見る価値もない、という見解には賛同しかねる。

つぎに、原告らは、第一、二審当時メモの存在を知らなかつた(またはメモのことを思いださなかつた)のである。だから、「遅くとも原二審(事実審)の終了する時までに、原告らの側からメモに関する具体的主張立証が出るのがむしろ自然であろう」というようなことは、言えないのである。

前にのべたことのくりかえしになるが、検察官は、第一、二審当時、すでに諏訪メモとその関係証拠を押収または録取し、これを手中にしていたということを忘れるべきでない。そしてこれを法廷に顕出しなかつたことの不法性とそれが審理のさまたげとなつたことは、本章第二節第二で論証した。原告らがこれに気づいて、具体的な主張をしなかつたということを理由として、その責任を原告ら(当時の被告人)に転嫁することは、検察官の職務から見て、正しくない(本節(3)参照)。右の反対意見の見解は、検察官は、相手方が、気づかなければ、相手方に有利な証拠を手にしていても、だまつて知らぬふりをしていてよい、と言うのとおなじことである。それは刑事訴訟法第一条とも、また検察庁法第四条とも、まつたくあいいれない見解である。

(2)  来訪者芳名簿について

反対意見は、

いうまでもなく、来訪者芳名簿中の問題の(昼の時間に当たる箇所の)斎藤千の記名は、自署ではなく、宍戸金一の代筆したものであるから、これが斎藤千の一三日アリバイ(一三日昼項の時間に郡山にいたことの)絶対的な証明になるものではない。

と言う。しかし、「絶対的証明」などというものは、厳密な意味では存在しない。郡山市警察署の来訪者芳名簿は、この意味で斎藤アリバイの「絶対的証明」になるとは言えないが、これと、宍戸金一、島田静子の供述などの関連証拠を合わせ、これと第三章でのべた虚偽架空の太田自白とも対比して見れば、常識的な意味で、斎藤千のアリバイの決定的な証拠になる。これはすでに第五章第三節でくわしく論証したところであるが、これを簡単に要約してみれば、つぎのとおりである。

斎藤千の被疑(公訴)事実は、八月一三日の国労福島支部事務所の「連絡謀議」に出席して発言したということだけである。そしてこの「連絡謀議」についての供述を含んでいるのは太田自白だけである。そして、太田自白が不合理不自然な変化をしめし、また明白に虚偽架空な部分を含み、その内容自体から見ても信用できないことは第三章で論証したとおりである。加藤自認といわれている供述のなかでも、謀議の事実はのべられていない。ただ加藤は、八月一三日正午ごろ太田と佐藤一が国労福島支部事務所に来た、と言つているだけである。そして加藤自認では、太田と佐藤一は、たたみ敷きの部分(太田自白で謀議がおこなわれたことになつている場所)には行かないで帰つてしまつたことになつているのである(第三章第五節)。

それだけでなく、太田自白のうち八月一三日の謀議についてのべている部分はつぎのような矛盾と嘘のかたまりなのである。

まず、太田自白によれば、東芝側と国鉄側の一一人の者が、車座になつて列車転覆の謀議をしたことになつている同事務所たたみ敷きの部分のすぐ前の二米半ぐらいしか離れていない支部の事務席には、すくなくとも支部書記大橋正三と羽田照子が坐つていたことは確実である。つまり、大橋と羽田の目の前二米半ぐらいのところで、一一人の者が「車座」になつて、列車転覆の謀議をしたことになる。一一人の者が車座になつて話をすれば、そこから二米半ぐらいしか離れていない人に聞かれないように話をするのはきわめて困難であろう。しかも、太田は右の謀議が、正午ごろおわつたのちも、佐藤一、斎藤千、武田久の三人が右のたたみ敷きの部分に残つて、午後一時ごろ太田が帰るころまでそこにいたと言つているのに、そのたたみ敷きの部分(五畳のたたみを横にならべて敷いただけのもの)には「一二時前後ごろ」部外者である小針一郎が来て新聞を見たり、すぐ前の支部の事務席にいた大橋正三と雑談をしたりしているところへ、一二時二、三〇分ごろ武田、二ノ宮、小川市吉(やはり部外者)らが、あい前後してはいつて来て、武田は支部の事務机で七月分の給料未払分の請求書を書いたり、小針、小川らと雑談したり、昼食を食べたりして、午後一時ごろ事務所を出て、管理部で七月分の給料未払分を受け取り、支部書記羽田照子とともに、郡山市へ行つたことがあきらかなのである。(以上第三章第三節)。これらの事実が、ほとんど正確に符合する小針一郎、小川市吉らの供述によつて証明されていること、およびそれらの供述が擬装工作による作りごとであるなどとはとても考えられないことは第三章第三でくわしく論証したとおりである。しかも、太田が、武田、斎藤千と話をしていたと言つている佐藤一について明白なアリバイが成立することは、第五章第二節で論証したとおりである。さらにまた、太田は「支部と分会の事務机のところには人がおらず、畳敷きの部分は事務所の東端の会議席からは、壁でさえぎられて見えないようになつていた」という明白な嘘まで言つている。支部の事務机には、前述のとおりすくなくとも大橋、羽田の両書記がいたことは確実なのであり、また、五畳のたたみ敷きの部分と会議席のあいだには「壁」などはなく、たたみ敷きのすみに巾三尺のテックス製のふすまが立てられていただけである(したがつて、太田白白で言われているように一一人の者が右の五畳のたたみの上に「車座」((太田はその図面まで画いている))になれば、一部の人がそのふすまのかげになるだけで、そのほとんどが見通せるのである―第三図面参照)。このような嘘のかたまりのような太田自白を信用するのはまちがいである(第三章参照)。

一方、郡山市警察署の来訪者芳名簿の八月一三日の部分には、斎藤千の名が四ケ所記入されている。そのうち二番目には、宍戸金一と斎藤千の名がならべて書かれていて、これについて宍戸は、「八月一三日午前一〇時半ごろ斎藤千とふたりで、渡辺郁造らの昼食の差入れと面会のため、国労郡山分会事務所を出て郡出市警察署へ行く途中、『世界』という飲食店によつて、差入用のかつどん二つを注文して待つているあいだに、斎藤千がおれはまだ朝食をしていなからここで食べて行く、と言つてもう一つの追加注文し、やがてできてきたかつどのうちの一つを斎藤が食べているうちに、宍戸が二つを持つて一足先に、郡山市警察署に行き、玄関受付の来訪者芳名簿に斎藤千と自分の名前と用件(面会、差入れ)を記入し、階下で斎藤を待つていて、まもなく斎藤が来たので、ふたりで二階の司法室に行つて面会と差入れの申しこみをしたところ、差入れだけが許されたので、かつどんを係官に渡し、しばらく待つていて、からのどんぶりを受け取つて帰つた」と供述しているのである。宍戸の言つていることは、けつして嘘や作りごとではない。そのなによりの証拠は郡山市警察署の来訪者芳名簿の八月一三日の部分に斎藤と宍戸の名が宍戸の筆跡でならべて記入されているという明白な事実である。宍戸の供述の裏づけとして、これ以上に明白かつ確実な証拠はない。しかも「世界」の娘島田静子も大体これと符合する供述をしているのである。

これでどうして来訪者芳名簿が斎藤千のアリバイの証拠にならないだろうか。この明白な証拠を無視し、嘘だらけの太田自白を信ずることがどうして合理的常識的なのだろうか。

斎藤千は、八月一二日から一五日までのあいだ郡山市に滞在して渡辺郁造の釈放運動をつづけ、その間毎日何回となく面会や差入れなどのために郡山市警察署にかよい、いつしよに行つた者も古川朝男、村上光夫、宍戸金一など、そのときどきにより、まちまちであり、またひとりで行つた場合もある。このようにおなじようなことをくりかえしていれば、あとで思いだすときに、忘れていたり、思いちがいをしたりするのはむしろ当然のとこであろう。斎藤の法廷での供述や主張が宍戸の供述とくいちがつていても、それはすこしも、問題になることではない。

郡山市警察署の警察官が斎藤が宍戸のあとから来たことを確認していないということも問題になることではない。警察署には毎日おびただしい数の人が出入りする。斎藤もそのころは、一日に何回も出入りしていたのである。三ケ月以上もたつてから、特定の時刻に斎藤が来たことを記憶だけで「確認」できなくてもすこしもおかしくはないであろう。

右のような郡山市警察署の来訪者芳名簿が、斎藤アリバイの証拠にならない、というようなことは、常識ではとうてい理解できないことである。

反対意見は、

そればかりではなく、当審証人小沢三千雄の証言(41.5.21速記録P37)や捜査段階当時すでに原告(当時の被告人)らの側によつて数多くの供述録取書が作成されていることなどから推しても、いかなる参考人が警察に呼ばれてどのような供述をして来たかについて周到な情報網が張り廻らされていたことがうかがわれるので、宍戸が警察に呼ばれていかなる供述をしたかということについても弁護人らにもその情報が伝えられていたと推測され、そうすれば、仮に斎藤本人が昼の時間の差入れの事実を忘れていたとしても、その記憶を喚起する手段、手掛りがありえたはずである。もとより宍戸を証人として申請することもできたはずである。

と言う。しかし、反対意見の言うように原告らや弁護人が当時どのような「周到な情報網」を張りめぐらせていたのかはわからないが、右のような「推測」をするのは、すこし飛躍しすぎているでろう。当時宍戸は、すでに東京に引越して来ていて、東京から郡山市警察署に呼び出されて取り調べを受けたのである。このことが弁護人らに簡単にわかつたとは思われない。

また、反対意見はつぎのように言う。

たしかに、裁判所が職権で取り寄せの決定をした書類が検察庁の倉庫内に存在しながら、これらの書類を法廷に顕出しなかつたということは非難に値することではあろう。しかし、取寄は、もともと原二審裁判所が職権でこれを行なうおうとしたもので、検審官の側はもとより、原告(当時の被告人)らの側も進んでその取寄を求めたものでないこと、そして取寄が不能に帰した旨の裁判長の告知に対し原告らの側からもなんらの発言をせず、さらに進んでその所在を突きとめる努力、熱意を示した形跡がないこと、これらの書類が法廷に顕出されなかつたのは上級検察庁と下級検察庁との間及び検察庁と警察署との相互の連絡努力の不十分によることで、その怠慢は非難さるべきであるとしても、ことさらにこれらの書類を隠匿する悪意があつたとは考えならないこと(山口一夫当審証言41.2.26速記録P131〜143)、斎藤千自身が一三日昼の時間に差入れに行つたということは一言も主張しておらず、来訪者芳名簿等が斎藤千の一三日アリバイを証明するに足らないとする検察官の判断がいちがいに非常識、不合理なものとはいえないこと、以上一切の事情を総合して考察すれば、当民事法廷の見地においては、検察官が来訪者芳名簿等を法廷に顕出しなかつたことをもつて一方的に不公正として非難することのできないのはもとより、かかる不公正な措置により第一、二審裁判所の判断を誤らせたということも、また、ただちに断定できないものというべきである。

右の反対意見のなかで、「当民事法廷の見地においては、検察官が来訪者芳名簿等を法廷に顕出しなかつたことをもつて一方的に不公正として非難することのできない」ことの理由としてあげられている事項を列挙するとつぎのとおりである。

(1) 取寄は、もともと、原二審が職権でこれを行なおうとしたもので、検察官の側はもとより、原告(当時の被告人)らの側も進んでその取寄を求めたものでないこと

(2) そして取寄が不能に帰した旨の裁判長の告知に対し原告らの側からなんらの発言をせず、さらに進んでその所在を突きとめる努力、熱意を示した形跡がないこと

(3) これらの書類が法廷に顕出されなかつたのは、上級検察庁と下級検察庁の間及び検察庁と警察署との相互の連絡努力の不十分によることで、その怠慢は非難さるべきであるとしても、ことさらこれらの書類を隠匿する悪意があつたとは考えられないこと

(4)  斎藤千自身が一三日昼の時間に差入れに行つたということは一言も主張しておらず、来訪者芳名簿等が斎藤千の一三日のアリバイを証明するに足らなとする検察官の判断がいちがいに非常識、不合理なものとはいいえないこと

まず、(1)について言うと、斎藤千は、その当時、八月一三日の昼ごろ宍戸金一とともに郡山市警察署に渡辺郁造らに対する差入れと面会のために行つたということを忘れていたのである。何度もくりかえしたとおり、斎藤は八月一二日から一六日までのあいだ、当時郡山市警察署に勾留されていた渡辺郁造の釈放運動、差入れ、面会などのため郡山市に滞在し、その間一日に何回も郡山市警察署に行き、いつしよに行つた相手も村上光夫、宍戸金一、古川朝男などまちまちであり、ひとりで行つた場合ももちろんある。このように、おなじようなことを何度もくりかえせば、二、三ケ月以上もたつたあとでそのことを思い出そうとするときに記憶の混乱や亡失がおこることはむしろあたりまえのことである。手帳にもこくめいに書きとめておけばべつであるが、そうでないかぎり、そのようなことは普通の人には避けられないことである。斎藤が右のようなことを具体的に正確に思い出さなかつたことを、どうして責めることができるだろうか。原告(当時の被告人)らが進んで来訪者芳名簿の取寄を求めるというようなことを、どうして期待することができるだろうか。また、その取寄決定が第二審裁判所の職権による決定であつて、被告人、弁護人の求めによる決定でなかつたという事実が、これを押収、保管していながら法廷に顕出せず、最後まで黙つていた検察官の行為を、どうして正当化するのだろうか。

右の(1)で言われていることは、前述の反対意見の「当審証人小沢三千雄の証言(41.5.21速記録P37)や、本件において原告(当時の被告人)らの側によつて数多くの供述録取書が作成されていることなどから推しても、いかなる参考人が警察に呼ばれてどのような供述をして来たかについて周到な情報網が張り廻らされていたことがうかがわれるので、宍戸が警察に呼ばれていかなる供述をしたかということについても、弁護人らにもその情報が伝えられていたと推測され、そうすれば、仮に斎藤本人が昼の時間の差入れの事実を忘れていたとしても、その記憶を喚起する手段、手掛りがありえたはずである。もとより宍戸を証人として申請することもできたはずである」という見解を前提にしなければ言えないことである。しかし、右のような推測をするのは行きすぎである。小沢三千雄らや弁護人らが、はたして反対意見で言われているような「周到な情報網」を張りめぐらせていたのか、それとも弁護人として当然なすべき事実調査の活動をしたにすぎないのか、それはわからない。しかし、いずれにしても、宍戸金一が昭和二四年一一月中旬に東京から郡山市警察署に呼び出されて、斎藤千の八月一三日の行動について取り調べを受けたという事実が、民間人である小沢三千雄や弁護人らに簡単にわかつたとは思われない。それだけでなく、もし、「宍戸が警察に呼ばれていかなる供述をしたか」ということが弁護人にわかつたならば、弁護人はなにをおいてもまず宍戸を証人に申請し来訪者芳名簿の顕出を求めたであろう。前にもくりかえしのべとおり、宍戸は、「八月一三日渡辺郁造ほか一名に対する面会と差入れのため斎藤とともに午前一〇時半ごろ郡山分会事務所を出て、途中世界という飲食店によつて、かつどん二個を注文したところ、斎藤はまだ朝食をしていないからここで食べて行くと言つて、べつにかつどんを注文して食べはじめたので、できてきたかつどん二個を持つてひと足さきに郡山市警察署に行き、玄関受付の来訪者芳名簿に、斎藤と自分の名と用件を書き入れ、その場で待つているうちに斎藤が来たので、ふたりで二階の司法室に行つて面会と差入れの申しこみをしたところ、差入れだけが許可されたので、差入れを済ませて昼ごろ分会事務所に帰つて来た」と言つているのである。そして、宍戸の話が嘘や作りごとでないことの、なによりの証拠は、郡山市警察署の来訪者芳名簿の八月一三日の部分に、宍戸と斎藤の名がならべてその用件とともに宍戸の筆跡で記入されているという明白な事実である。斎藤千のアリバイについて、これほど確実な証拠はない。宍戸が右のように供述し、郡山市警察署の来訪者芳名簿にこれを裏づける記入がなされていると言う事実を弁護人らが知つていながら、これを法廷で主張しないということはありえないことである。斎藤千もこのことを思い出すことができず、また弁護人もこのことを知らなかつたからこそ、法廷でまちがつた主張をしていたのである。「宍戸が警察に呼ばれていかなる供述をしたかということについても、弁護人らにもその情報が伝えられていたと推測される」という反対意見の見解は、前述のとおり行きすぎであるだけでなく、その推測の内容そのものが右にのべたとおり不合理であり、これを受けいれることはできない。

つぎに(2)について考える。第二審裁判所は職権で取寄決定をして、郡山市警察署に対して取寄嘱託をしたところ、郡山市警察署長は裁判所に対し、「そのような帳簿はない」という趣旨の回答をした。第二審裁判所は、この回答にもとづいて、「取寄は不能に帰した旨」を法廷で告知した。この第二審裁判所の告知を法廷で聞けば、だれでも、「そのような帳簿があつたとしても、すでに廃棄処分にでもされて現存しないのだろう」と考えるのがあたりまえである。これが現存して、しかも検察官がすでにこれを押収し保管しているというようなことは、普通の人には夢にも考えられないことである。これが現存していることを知つていたのは、これを押収し保管していた検察官だけである(第二審担当の検察官の知、不知を問題にしていないことは、前節でのべたとおり)。反対意見で言われているように、「取寄が不能に帰した旨の裁判長の告知に対し、原告らの側からなんらの発言をせず、さらに進んでその所在を突きとめる努力、熱意を示した形跡がない」と言つて、原告らを責めるのは無理というものであろう。裁判長が「取寄は不能に帰した」と言い、それに対して検察官が黙つていれば、原告らと弁護人が、そのような帳簿はもはやないものと思いこむのはまつたく当然なのであつて、原告らと弁護人がそれ以上になにか「発言」したり、「さらに進んでその所在を突きとめる努力、熱意を示し」たりすることができるわけはないであろう。検察官がすでに来訪者芳名簿を押収して現にこれを保管しながら、裁判所の職権による取寄決定がなされたにもかかわらず、黙つているのに、原告らと弁護人は、どうして「その所在(この場合、それは、検察庁である)を突きとめる努力」をしなければならないのだろうか。「取寄は不能に帰した」という裁判所の告知を、被告人と弁護人は信じてはならないのだろうか。原告(当時の被告人)らと弁護人は、「取寄は不能に帰した」と言う裁判所の告知を信じ、もはやそのような帳簿は、ないものと思つたからこそ、その告知に対してなんの発言もしなかつたのであるし、まして、「その所在を突きとめる努力」などはもちろんできなかつたのである。

検察官がすでに押収し保管している来訪者芳名簿の「所在(それはすなわち検察庁である)を突きとめる努力、熱意」を、被告人と弁護人がしめさなければならないということはなつとくできないことである。検察官が来訪者芳名簿を押収し、検察庁に保管しているのに、被告人と弁護人に、「その所在を突きとめる努力、熱意」を要求するということは、なにを意味するのだろうか。それが公正なるべき刑事裁判のあるべき姿なのだろうか。当裁判所には、どうしてもそのようには考えられないので、反対意見の右の見解を受けいれることはできない。

つぎに(3)について考えるに、当裁判所は「上級検察庁と下級検察庁の間及び検察庁と警察署との相互の連絡努力の不十分」とか、「これらの書類を隠匿する悪意」の有無というようなことをすこしも問題にしていない。来訪者芳名簿とこれに関連する宍戸金一と島田静子の供述調書を法廷に顕出しなかつたことが、検察官の法廷における真実義務に反しないかどうか(それが争点である)を問題にしているのである。事務的な連絡努力の不足とか、第二審担当の検察官個人の知、不知(善意、悪意)というようなことは、問題にする必要のないことである(第二節第三)。

つぎに(4)について考えるに、「斎藤千自身が一三日昼の時間に差入れに行つたということは一言も主張していない」のは、斎藤がこのことを忘れていたからであり、当時の状況のもとでは、これを忘れていたということのために斎藤を責めることができないことはすでにのべたとおりである。

「来訪者芳名簿等が斎藤千の一三日のアリバイを証明するに足らないとする検察官の判断」はあきらかに不合理、非常識である。郡山市警察署の玄関受付にそなえつけてあつた来訪者芳名簿の八月一三日の部分に、斎藤千と宍戸金一の氏名がその用件とともにならべて宍戸の筆跡で記入されていて、しかも宍戸は、その日の昼食の差入れと面会のため、斎藤とともに同警察署に行き、右の記入をした経過をくわしくのべている。そうすれば宍戸の言つていることは嘘や作りごとでない。そのなによりの証拠は右の来訪者芳名簿である、と考えるのが常識である(ほかにもつとはつきりした証拠があればべつであるが、そのようなものはひとつもない――第五章第三節)。これを無視して、第三章で論証した虚偽架空の太田自白を信ずることが、常識的、合理的であるなどとはとても言えない。郡山市警察署の来訪者芳名簿は、これに関連する宍戸金一および島田静子の供述調書と合わせ、斎藤千のアリバイの明白かつ確実な証拠である。法廷で斎藤千のアリバイが問題になつていたのに、検察官がこれを手持ちしながらこれを法廷に顕出しなかつたのは、その真実義務にそむく行為であり、違法である。もしこれらの証拠が第一審法廷で顕出されていれば、すくなくとも斎藤千が第一審で無罪の宣告を受けていたことはほとんど疑いがないことである。まして、第二審裁判所は、職権により郡山市警察署に対するその取寄の決定までしたのに、検察官は、その決定にあたり「然るべく決定されたい」という意見を陳述したまま、最後までその所在を裁判所に告げなかつた。そのため第二審裁判所は、郡山市警察署から「そのような書類はない」という趣旨の回答を受け取り、もはやそのような帳簿はないものと誤信し、「取寄は不能に帰した」旨を法廷で告知した。そのとき、来訪者芳名簿は福島地方検察庁に現存したのである。つまり、結果としては、検察官は、第二審裁判所を欺罔し、来訪者芳名簿を隠匿したのとまつたくおなじことをしたことになる。このようなことはだれが考えても、あつてよいことではないのである。人の生死にかかわる重大事件の審理の過程で、このようなことがおこなわれたということは、まことにおどろくべきことである。それにもかかわらず、これを正当な行為であるかのように言つている被告の主張(第四準P428(400)、第五準P779780)は、あきらかにまちがつているし、また不正である。むしろ、それは、公正なるべき刑事裁判の経過の上に、明白かつ重大な汚点を残した不祥事だつたと言うほかないものである。

第二審担当の検察官個人が、来訪者芳名簿のことを知つていたか、知らなかつたかというようなことは、右の義務違反の成否には、なんの関係もないことである。もし、知らなかつたとすれば、それは右の検察官個人の立場から見て重大な過失である(第一審の担当検察官が知つていたことはあきらかである)。もともと、検察官がその手持ち証拠を知らなかつた、というようなことは言つてはならないことであるし、またそのようなことを言つても、なんの意味もないことである。来訪者芳名簿を押収したのは検察官であるし、これを保管していたのも、また、検察官である。検察官同一体の原則は、検察官に都合のよいときにだけ適用される原則ではない。だから、担当検察官個人の不知というようなことは、なんの抗弁にもならないのであつて、そのようなことは、本件においては問題として取りあげることもできない。

つぎに、来訪者芳名簿とその関係証拠は、右のように原第一、二審で顕出されなかつただけでなく、事件が仙台高等裁判所に差戻されたのちも、刑事事件のおわりにいたるまでついに法廷に顕出されなかつたことに、注目しなければならない。つまり、刑事事件の裁判所は、差戻後の第二審および最高裁判所を含め、これらの証拠の存在さえも知らなかつたのである。来訪者芳名簿とその関連証拠は、ただ単に、斎藤千の八月一三日の連絡謀議のアリバイの証拠であることにとどまらない。それは、八月一三日の連絡謀議の重要な構成分子である斎藤千のアリバイを確証することによつて、右の謀議についてのべているただひとつの供述である太田自白の信用性に対する判断に影響をあたえる可能性を持つものである。斎藤千のアリバイが単に村上光夫らの証言によつて認められる場合と、郡山市警察署の来訪者芳名簿という明白かつ確実な物証によつて裏づけられた宍戸金一の供述によつて証明される場合とでは、心証の強度がちがうのである。太田自白で、八月一三日連絡謀議に出席して、「このことは絶対に口外してもらつては困る、口外すれば命はないものと思わなくてはならない」と発言し、謀議がおわつたのちも、武田久、佐藤一とともに、たたみ敷きのところに残つてなにか話をしていたことになつている(第三章第三節)斎藤千について、このようにはつきりしたアリバイが成立するのでは、太田自白は容易に信用できない、と考えるのが普通の考え方である。差戻後の第二審の検察官は、原第二審判決ですでにその存在を否定された八月一三日の国労福島支部事務所の連謀絡議が存在したと主張した。つまりそれは、右の連絡謀議についての太田自白が信用できるという主張である(甲42P182、検察官意見要旨)。右のような主張をするならば、太田自白の信用性について、重大な影響を持つ可能性のある来訪者芳名簿とその関連証拠を法廷に顕出しなければ、公正な措置とは言えないし、また、その真実義務をつくしたとも言えないのである。

このような訴訟追行のしかたはあきらかに真実義務にそむき、違法である。反対意見は、これを「一方的に不公正として、非難することのできないのはもとより」と言うが、右にのべた(1)ないし(4)の反対意見の見解は、まつたく理由のないことであり、すこしも検察官の右の行為を正当化するものではない。反対意見の見解は、結局、被告人や弁護人が気づかないでいる場合には、検察官は右のようなことをしてもよいということになる。また、検察官が、来訪者芳名簿を押収し、これを保管しているのに、被告人と弁護人がこれに気づかないで、法廷でなにも主張しなかつたということを理由としてその不提出の責任を被告人と弁護人になすりつけることにもなる。当裁判所には右のようなことは、まつたく正義に反すると思われるので、右の反対意見の見解に賛同することはとてもできない。

(3) 反対意見の(3)について

反対意見の(3)についての当裁判所の判断は本章第一、二節でのべたとおりである。当裁判所は、本章第一節で、第二章以来の論証を総合して、原告らが無実であつたこと、および原告らに対する捜査、公訴の提起、追行が全体として捜査官、公訴官の裁量の限界(第一章第二節)を超えるものであり、違法かつすくなくとも過失あるものであつたことを論証し、第二節で検察官の法廷での訴訟追行(主張、立証)が真実義務に違反し、これまた違法かつすくなくとも過失あるものであつたことを論証したのである。反対意見で言われていることは、この論証には関係のないことである。なお、反対意見で言われていることについて逐一見解をのべれば、つぎのとおりである。

反対意見は、

以上に述べたところを要約すれば、諏訪メモにしても、来訪者芳名簿にしても、これらの証拠がそれ自体で(或いは他の証拠と合わせて)原告らの側に決定的に有利であるとの評価が唯一絶対のものであつて誰の目にも明らかであるというならば、検察官がこれを法廷に顕出しなかつたことは、正に不公正として非難さるべきことであるが、この点の評価には差異がありえて、たとえ、裁判所の判断と検察官の判断とに食い違いがある場合でも、その食い違いが両者の判断に差異を生ずる原因となる諸事情より生ずるやむをえない食い違いの範囲を越えるものと認められない場合には、これらの証拠が原告らに有利であるとの評価が唯一絶対のものであることを前提としてただちに検察官の訴訟追行方法を不正として非難することはできないということである。

と言う。しかし、「これらの証拠がそれ自体で(或いは他の証拠と合わせて)原告らの側に決定的に有利であるとの評価が唯一絶対のものであつて誰の目にも明らかである」ような場合のほかは、検察官は、その押収した証拠物または録取した供述調書のなかに、被告人に有利な方向にはたらく可能性のあるものが存在しても、これを法廷に顕出する義務がないと考えるのは、前節で説明したとおりあやまりである。それでは、法廷に真実を顕出して、法の正しい適用を求めなければならない検察官の公正な職務の遂行とは言えない。

強制捜査の権限、もなわち証拠を強制的に集める権限が検察官にあたえられていることの目的は、法廷に真実を顕出して、法の正しい適用を裁判所に請求することである。そして、その「真実」というものは、検察官の独断によつてひとりぎめをすべきものではない。前節でのべたとおり、検察官の証拠に対する判断は、積極的判断であると消極的判断であるとを問わず、これを公開の法廷での批判にさらし、これについて議論をつくさなければならない。証拠の開示義務も提出義務も特定の場合のほかはさだめられていないわが国の刑事訴訟法のもとでは、なおさらそうである。

検察官は強制捜査の権限と証拠物保管の権限を持つている。したがつて、もし検察官が、この強制権限によつて集め、保管する証拠のうち、検察官が立証上必要(すなわち、検察官の考えから見て真実)と判断する証拠だけを選択して法廷に顕出すればよいという解釈(差戻後第二審検察官意見要旨甲42P247参照)をとるならば、前節で説明したとおり、検察官が証拠の判断(選択)について優先権を持ち、極言すれば証拠の独裁者になつてしまうのである。このような見解が刑事訴訟の本質に反し、まちがつていることは明白である。

検察官が真実と考えようと虚偽と考えようと、いやしくも被告人に有利な外形(被告人の有利に解される可能性)を持つ証拠を持つているならば、検察官はこれを法廷に顕出すべき義務がある。検察官がこれを虚偽と判断しているならば、そのように判断する根拠を法廷でのべた上でこれを顕出すべきである。たとえば被告人のアリバイを具体的にのべた供述調書(前述紺野三郎10.28佐藤調書、西肇10.29吉良調書などはその実例)を検察官が持つているならば、検察官はこれを弁護人にしめし、「検察官は被告人のアリバイについてのべた供述調書を持つているが、これは虚偽(またはまちがい)と判断する。しかし、弁護人または被告人がこれについて弁論する考えがあるならば、その同意をえて提出する」と法廷で言うべきである。そうでなければ検察官の右の証拠に対する判断の当否はほかのだれにもわからない。つまりは検察官のひとりぎめになつてしまい、この点にかんするかぎり、公開の法廷での刑事訴訟というようなことはおよそ意味がなくなつてしまうからである。刑事訴訟法に証拠の開示義務も提出義務も規定されていないからこそ、右にのべた検察官の義務(法廷での真実義務の一つのあらわれである)がいつそう強調されなければならないのである。

弁護人や被告人がそれに関係する事実を具体的に指摘したり、主張したりしていない、というようなことはすこしも右にのべた検察官の義務を免除するものではない。むしろ、弁護人や被告人がこれについて具体的な主張をしていないということは、普通は、そのことに気づいていないことをしめすのであるから、それについての証拠を持つている検察官の方からこれを指摘してその注意を喚起し、それについての弁論をうながさなければならない。それが強制捜査の権限を持つている検察官の責任である。たとえば、アリバイの証拠のようなものは、どこにどのような証拠があるかわからない場合が多い。自分の行動は、どこでだれが見ているかわからない(たとえば、八月一五日午後一時ちかく佐藤一が八坂寮玄関で靴をはいているのを見たという紺野三郎の供述―第二章第五節(三)―、八月一三日昼ごろ太田がひとりで福島駅付近の道路をあるいて行くうしろ姿を見たという鷲見誡三、西肇の供述―第五章第二節第四―など参照)。また、自分の行動でも、こまかい点は忘れている場合も多い(たとえば斎藤千は八月一三日昼宍戸金一とともに面会、差入れのため郡山市警察署に行つたことを忘れていた―第五章第三節第二の三)。また、弁護人には強制捜査の権限がないのであるから、諏訪メモ、来訪者芳名簿などの証拠物が存在しても、これを見つけだすことはほとんど不可能であろう。強制権限によつてそれができるのは、捜査官だけである。だから、弁護人や被告人が諏訪メモや来訪者芳名簿などについて具体的な主張をしていないから、これを法廷に顕出しなくてもよいという反対意見の見解は、実体的真実の発見を目的とする刑事訴訟の本質に反するものである。弁護人や被告人が具体的に主張していなければ、なおさら強制権限によつてこれらの証拠物を押収保管している検察官はこれを法廷に顕出して、それについての相手方の弁論をうながさなければならないのである。

相手方が具体的に主張しなければ、検察官はこれらの証拠を法廷に顕出しなくてもよい、という反対意見の見解がもし正しいならば、相手方がこれに気づかなければ、検察官はこれらの証拠を手にしていながら、知らぬふりをして黙つていてもよいということになる。このような見解は、刑事訴訟法第一条と検察庁法第四条の原則とまつたくあいいれないものである。

諏訪メモ、来訪者芳名簿とその関係証拠が、右にのべた意味で、すくなくとも被告人の利益になる可能性を持つた証拠であることはあきらかである。したがつて、検察官がこれを法廷に顕出しなかつたことは、それだけですでに検察官の右にのべた義務に違反する行為である。しかもそれだけでなく、諏訪メモと来訪者芳名簿がその関係証拠と合わせて、それぞれ佐藤一の八月一五日のアリバイと斎藤千の八月一三日のアリバイの決定的な証拠の一環となつていることは、第二章と第五章第三節で、論証したとおりである。したがつて、これらの証拠を法廷に顕出しなかつたことは、右にのべたことに加えて、これよりはるかに強い意味で検察官の真実義務に、違反するものである。

つぎに、証拠の評価には、人によつても、考え方によつてもちがいがありうる。それが自由心証である。しかし、ちがいがありうると言つても、無制限にどのような評価をしてもよいということではない。非常識、不合理な(つまり、論理則と経験則に反する)評価をすることは許されない。それが自由心証の限界である。

同じ八月一五日午前の団交の現場で、労使双方の記録者がそれぞれ記録した諏訪メモと田中メモのどちらを見ても、佐藤一のおなじ発言が午前の記録の最後に書かれている。そして、諏訪メモの午前の記録の後半の筆記者である事務課長西肇は、「最後に佐藤一が相当長く発言したのですが、私の記録が終つた時に午前の交渉が終つた様に記憶しております」とのべている。これでどうして諏訪メモが被告人にとつて有利な証拠でないと言えるのだろうか。これだけの証拠関係を見ても、佐藤一が午前の団交の最後までいたことは、特別のことがないかぎり、相当たしからしいと考えるのが普通の考えである。これらの証拠が、すくなくとも、被告人のために有利な方向にはたらく証拠であることはあきらかである。そして、さらに、証拠の全体を見ると、それが八月一五日午前午後にわたる佐藤一のアリバイの決定的な証拠の一環となつていることは、第二章でくわしく論証したとおりである。諏訪メモが、佐藤一のアリバイについて、被告人に有利な証拠でない、などという判断は非常識かつ不合理であつて、右にのべた自由心証の限界をこえるものである。

郡山市警察署の来訪者芳名簿についてもおなじである。郡山市警察署の玄関受付にそなえつけてあつた来訪者芳名簿の八月一三日の部分には斎藤一の名が四カ所記入されている。その二番目には、宍戸金一の名とならんで斎藤千の名が書かれている。そして、宍戸は、八月一三日斎藤千とともに渡辺郁造らに対する昼食の差入れと面会のため郡山市警察署に行き、玄関受付の来訪者芳名簿に右の記入をした経過を、前述のとおりくわしくのべている。宍戸の言つていることが嘘や作りごとでないことのなによりの証拠は郡山市警察署の玄関受付にそなえつけてあつた来訪者芳名簿の八月一三日の部分に斎藤千と宍戸一の名がならべて、その用件(面会差入れ)とともに、宍戸の筆跡で記入されているという明白な事実である。宍戸の供述の裏づけとして、これほど明白かつ確実な証拠はない(このほか、斎藤千と宍戸が差入用のかつどんを注文し、斎藤千が、朝食を食べた飲食店「世界」の娘島田静子が宍戸の供述と大体符合する供述をしている―くわしい論証は第五章第三節参照)。郡山市警察署の来訪者芳名簿が斎藤千のアリバイの証拠にならないという判断は常識では理解できないことであり、まことに非常識かつ不合理である。

反対意見は、「裁判所の判断と検察官の判断の食い違い」ということを指摘するが、第二章以来の論証はそのようなことを問題にしているのではない。証拠の評価には見解の相違がありうる。しかし見解の相違と言つても、それは、右にのべた自由心証の限界(つまり合理的、常識的ということ)内でだけ言いうることである。甲という見解もあるが乙という見解もありうるということは、どちらの見解も合理的、常識的に考えられるということである。その限界からはみ出した不合理、非常識な見解は、まちがつているのである。捜査、公訴権の行使が不合理、非常識であつてよいはずはない。不合理、非常識な捜査、公訴権の行使は、その乱用であつて違法である(第一章第二節)。そして、本件で問題となつている刑事事件の捜査、公訴権の行使が、右にのべた自由心証の限界からはみだした、不合理、非常識なものであつたというのが、第二章以来の論証の結論なのである。したがつて反対意見の言う「裁判所と検察官の判断の相違」というようなことは、右の論証とは関係のないことである。

つぎに反対意見は、

しかしながら、本件において検察官の訴訟追行の方法が原告らの側から不公正の疑いをかけられたことについては、まつたくの理由がなかつたというわけではない。諏訪メモや、来訪者芳名簿のように被告人らの立場に立てば一応被告人らが、自己に有利な証拠と評価し利用することがもつともと思われるような証拠は、適当な時期に、被告人らにこれを利用する機会を与えておきさえすれば、そしてそのことを記録上明らかにしておきさえすれば、今日、検察官が原告らからうけているような不公正の疑いを避けることはできたはずである。この意味においてこれらの証拠の取扱に対する検察官の措置が、たとえこの点につき悪意がなかつたにせよ、また、たとえ客観的評価において不公正とは断定しえないものであるにせよ、その結果と外形において、不公正の疑いをかけられてもやむをえないとされる点があつたことは否定出来ないところであろう。換言すれば、これらの措置は、原告らの側からみて、不公正の疑いをかけたことも一応無理からぬというようなものであつたことは、これを認めねばならないであろう。

と言う。しかし、当裁判所は、検察官の行為が、単に「その結果と外形において、不公正の疑いをかけられてもやむをえないとされる点があつた」とか、「原告らの側からみて、不公正の疑いをかけたことも一応無理からぬというようなものであつた」というようなことを判断したのではないし、また、そのようなことが本件の争点になつているのではない。反対意見は、「たとえ客観的評価において不公正とは断定しえないものであるにせよ……」と言うが、検察官の訴訟追行が「客観的評価において不公正」であつたかどうかがまさに本件の争点の一つなのであり、当裁判所は、第二章以来の論証にもとづいて、それが「客観的評価において不公正」かつ違法であつたと判断したのである。したがつて、反対意見の右の部分でのべられていることは、当裁判所の判断とも、また、本件の争点とも関係のないことである。

つぎに反対意見は、

そもそも、憲法的見地における適正(正当)手続の保障とは、単に、めんみつな検討の結果による客観的評価において不公正とは断定できない手続であれば足りるというものではなく、その公正であることが外観上明らかに国民によつて看取されるような手続、換言すれば国民の側からみて、外形上、いやしくも不公正を疑われることのないような手続でなければならないものと、解すべきである(「正義は単に行なわれたというだけでは足りず、明らかに、疑う余地なく正義が行なわれたことが看取されねばならない」との英米法の原則が想起さるべきである)。本件において検察官の措置に違法のかどがあつたとすれば、正に、その点にあつたというべきであろう。

と言う。憲法の保障する適正手続が反対意見のいうとおりのものであることはもちろんである。しかし、「本件において検察官の措置に違法のかどがあつたとすれば、正に、その点にあつたというべきであろう」という見解は、当裁判所の判断とも、また本件の争点とも関係がない。当裁判所は、検察官の措置が、その「外観」においてはもちろん、その内容においても、「客観的評価において不公正」かつ違法であつたと判断したのである。

つぎに反対意見は、

しかしながら、この意味における違法な措置により原告らが被つたかもしれない損害は、いわゆる白か黒かの判断において検察官が不合理、非常識な誤りを独し、公訴を提起追行したことにより原告らの被つた損害とは別種のものであるのはもとより、検察官が諏訪メモ等を隠匿するという不公正な措置によつて裁判所に誤判せしめたことによる損害とも別個のものである。すなわち、その損害とは、もつぱら、原告らがまつたくの無実であつたということの証明ができない場合であつても、憲法上享受するはずの、外観上もいやしくも不公正を疑われることのない手続によつて受り扱わるべき利益を侵害されたことによる損害というべきである。

と言う。まず、反対意見は「……損害は、いわゆる白か黒かの判断において検察官が不合理、非常識な誤りを犯し、公訴を提起追行したことにより原告らの被つた損害とは別種のものであるのはもとより」と言うが、「いわゆる白か黒かの判断において検察官が不合理、非常識な誤りを犯し、公訴を提起追行した」ということこそ、第二章から本章第一節までの論証のつみかさねによつて到達した結論にほかならない。

つぎに、反対意見は「検察官が諏訪メモ等を隠匿するという不公正な措置によつて裁判所に誤判せしめたことによる損害とも別個のものである」と言うが、検察官が諏訪メモその他本章第二節第二ないし第五にかかげた証拠を法廷に顕出しなかつたこと(「隠匿した」などとは言つていない)が、検察官の真実義務にそむき、それが刑事事件の審理のさまたげとなつた、というのが本章第二節の論証の趣旨である。

つぎに、「すなわち、その損害とは、もつぱら、原告らがまつたくの無実であつたということの証明ができない場合であつても、憲法上享受するはずの、外観上もいやしくも不公正を疑われることのない手続によつて取り扱わるべき利益を侵害されたことによる損害というべきであると」言うが、本件で原告が求めているのはけつしてそのような損害の賠償ではない。原告らの求めている損害賠償の大部分は、原告らが無実であることを前提にしてはじめて認められるものである(もし原告らが真犯人であるならば、それに相応する刑事訴追を受けて逮捕、勾留されるのはあたりまえであり、そこには、無実であることを前提とする損害などは生じない)。だからこそ、当裁判所は、原告らが真犯人であつたかどうかを検討しなければならないのであり、現にそうしたのである。そして、その結果、第二章から本章第一節にわたる論証により、原告らが無実であること、すなわち真犯人ではないことがわかつたのである。反対意見が、「原告らがまつたくの無実であつたということの証明ができない場合であつても、憲法上享受するはずの、外観上もいやしくも不公正を疑われることのない手続によつて取り扱わるべき利益を侵害されたことによる損害」の賠償しか認めないと言うことは、結局、原告らが真犯人でないという認定をするに足るだけの証拠がないということを言つていることになるのであるが(なお、反対意見のこの見解は、この点についての挙証責任が原告側にあることを前提とするものであるが、このこと自体についても問題がある。当裁判所は、この点についての挙証責任は、むしろ、被告側にあると考える。しかし、本件では、原告らが無実であることが積極的に認定できるので、これは、直接の問題とはならない)、原告らが無実であることが論証されたのであるから、反対意見のこのような考え方は認められないのである。当裁判所が次の章で算定する損害は、反対意見で言われている「原告らがまつたくの無実であつたということの証明ができない場合であつても」こうむる損害ではなく(本件で請求されているのはそのような損害ではない)、第二章以来の原告らが無実であることの論証の上に立つて、このことを前提とする損害である。

以上の理由により、当裁判所は右の反対意見を採用することができない。

第十章 損害

第一節  得べかりし利益

第二章以来論証したとおり、もと被告人であつた原告らは、まつたく無実である。したがつて、無実の人が、違法な逮捕、勾留によつて被つた損害を算定しなければならない。

原告らのうち、もと被告人であつた者は、本件に関して逮捕されたのち無罪確定にいたるまでのあいだの相当の部分、逮捕、勾留によつて身体の自由を拘束され、その間、職を得て収入を得ることは不可能であつた。したがつて、身体拘束期間中(現実には身体を拘束されていなくとも拘束されている場合と同視すべき勾留執行停止期間を否む)に働いていれば得ることができたと考えられる金額を得べかりし利益として請求できる。なお原告らは、保釈後および差戻後二審無罪判決後、無罪判決確定までの期間についても、得べかりし利益の回復を求めているが、法律上、その間、職を得て収入を得ることができなかつたとは言えないから、その間については得べかりし利益の損失の回復を請求できない、と解すべきである。

原告らは、得べかりし利益の算定は、原告らが逮捕前、および、逮捕当時占めていた国鉄、および、東芝における地位を基準にしてなすべきであると主張している。しかし、佐藤(代)と小林の二人を除いた他の原告らは、すべて、逮捕当時すでに解雇されていたのであり、復職の見込みが大きかつたことを認めるに足る証拠も存在しないし、佐藤(代)と小林についても、二人が、自己の地位と同視できると主張している者らと同等の地位にあつたことを認めるに足る証拠はない。したがつて、結局、得べかりし利益は、すべての原告について、当裁判所宛労働大臣官房雇用統計課長からの回答によつてあきらかな常用労働者平均月間現金給与額を基準として算定すべきである(得べかりし利益の算定基準として常用労働者平均月間現金給与額を用いることには原告らの年齢、性別等を一切無視する結果になるという欠陥があるが、それらの要素を加味して得べかりし収入を導き出すべき十分な資料も存在しないので、不十分なものではあるが、この資料によることにする)。

なお、本来、得べかりし利益の算定に当つては、得べかりし収入を得るために必要であつたと考えられる経費を差し引かなければならないが、本件においては原告らは、身体拘束中も、生活のためみずから出費(たとえば衣食の差入れ、家族との面会等のために要した費用)をおこなつているのであり、身体を拘束されていなかつたと仮定した場合の生活費に比して、その額がより小さかつたと認めるに足りる証拠は存在しないので(身体拘束中、監食等を支給された点を考慮してもこのことに変りはない)、結局、これは無視すべきである。

以上のことを前提として各人の得べかりし利益を算定するとつぎのとおりである。

1  鈴木信

鈴木信の身体拘束日数は、昭和二四年につき一〇一日、昭和二五年から昭和三三年までの全日数、昭和三四年につき一八二日である。また、前記常用労働者平均現金給与額にもとづいて各年における常用労働者の平均年間給与額を算定すると、昭和二四年一一九、七六〇円、昭和二五年一三一、五三二円、昭和二六年一六八、六一二円、昭和二七年二〇一、三八四円、昭和二八年二三四、七〇八円、昭和二九年二四一、一七六円、昭和三〇年二五六、一八八円、昭和三一年二八二、三二四円、昭和三二年三〇三、二六四円、昭和三三年三〇〇、六一二円、昭和三四年三二一、七三二円である。したがつて、昭和二四年についてはその三六五分の一〇一を、昭和二五年から昭和三三年までについてはその金額を、昭和三四年についてはその三六五分の一八二をもつて鈴木の得べかりし利益であつたと考えるべきである。この方法によつて算出された金額は二、三一三、二七〇円である。

2  二ノ宮豊

二ノ宮の身体拘束日数は、昭和二四年につき一〇一日、昭和二五年から昭和三三年までの全日数、昭和三四年につき一二八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は二、二六五、六九六円である。

3  阿部市次

二ノ宮の場合と同一。

4  赤間勝美

赤間の身体拘束日数は、昭和二四年につき一一三日、昭和二五年から昭和三一年までの全日数、昭和三二年につき一二日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は、一、五六二、九六〇円である。

5  高橋晴雄

高橋の身体拘束日数は、昭和二四年につき一〇一日、昭和二五年から昭和三二年までの全日数、昭和三三年につき三五八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は二、一四七、三〇八円である。

6  加藤謙三

加藤の身体拘束日数は、昭和二四年につき七二日、昭和二五年から昭和二七年までの全日数、昭和二八年につき三五八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は七五五、三三八円である。

7  浜崎二雄

浜崎の身体拘束日数は、昭和二四年につき一〇一日、昭和二五年から昭和二七年までの全日数、昭和二八年につき三五八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は七六四、八五〇円である。

8  杉浦三郎

杉浦の身体拘束日数は、昭和二四年につき八九日、昭和二五年から昭和三三年までの全数日数、昭和三四年につき一八二日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は二、三〇九、三三四円である。

9  大内昭三

大内の身体拘束日数は、昭和二四年につき八九日、昭和二五年から昭和二六年までの全日数、昭和二七年につき三三二日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は五一二、六〇〇円である。

10  菊地武

菊地の身体拘束日数は、昭和二四年につき八五日、昭和二五年から昭和二六年までの全日数、昭和二七年につき三三八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は五一四、六〇〇円である。

11  二階堂武夫

二階堂の身体拘束日数は、昭和二四年につき七六日、昭和二五年から昭和二七年までの全日数、昭和二八年につき三五六日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は七五五、三六四円である。

12  横谷(二階堂)園子

園子の身体拘束日数は、昭和二四年につき七六日、昭和二五年の全日数、昭和二六年につき一三二日である。前記の方法によつて算出されたこの間の得べかりし利益は二一七、四四四円である。

13  岡田十良松

岡田の身体拘束日数は、昭和二四年につき五一日、昭和二五年から昭和二七年までの全日数、昭和二八年につき三五六日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は七四七、一六四円である。

14  本田昇

本田の身体拘束日数は、昭和二四年につき、一〇一日、昭和二五年から昭和三三年までの全日数、昭和三四年につき一八二日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は二、三一三、二七〇円である。

15  佐藤一

佐藤(一)の身体拘束日数は、昭和二四年につき一〇一日、昭和二五年から昭和三三年までの全日数、昭和三四年につき一三九日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は二、二七五、三八七円である。

16  太田省次

太田の身体拘束日数は、昭和二四年につき八九日、昭和二五年から昭和三三年までの全日数、昭和三四年につき一二八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は、二、二六一、七六〇円である。

17  武田久

武田の身体拘束日数は、昭和二四年につき七二日、昭和二五年から昭和二七年までの全日数、昭和二八年につき三五六日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は七五四、〇五二円である。

18  斎藤千

武田久の場合と同一。

19  佐藤代治

佐藤(代)の身体拘束日数は、昭和二四年につき八九日、昭和二五年から昭和二七年までの全日数、昭和二八年につき三五八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は七六〇、九一四円である。

20  小林源三郎

小林の身体拘束日数は、昭和二四年につき八九日、昭和二五年から昭和二六年までの全日数、昭和二七年につき三三八日である。前記の方法によつて算出されるこの間の得べかりし利益は五一五、九一二円である。

第二節  慰藉料

もと被告人であつた原告らは、第二章以来論証したとおり、無実でありながら、捜査官、公訴官のすくなくとも過失をともなう違法な公訴提起、追行により、汽車転覆致死罪という重大な犯罪の被疑者、被告人という地位に、ほぼ一四年間にわたつて立たされた。そして、大部分の者は、一審、二審を通じて、死刑、無期懲役を含む刑の宣告を受け、二審で無罪判決を得た武田久、斎藤千、岡田十良松も、一審においては、それぞれ、無期懲役、懲役一五年、懲役一二年の判決を宣告された。また、その間、期間に差はあるが、いずれも長期間にわたつて勾留され、身体の自由を奪われていた。これらの事実を中心とする諸資料により、原告ら、およびその家族が大きな精神的苦痛を受けたことが認められる。

無実の者が汽車転覆致死という兇悪犯罪の被疑者、被告人として、長期間勾留され、家族から切りはなされ、一生のうちの大切な時期を刑務所のなかですごすことを強制され(これはとりかえしのつかないことである)、しかも、その間に、二度(ただし、武田、岡田、斎藤千は一度)までも死刑などの重刑を宣告されたことによつて受けた、無念、不安、恐怖などの精神的苦痛の深刻さは想像にあまりあるものである。また、長期の勾留による直接、間接に受ける肉体的苦痛も大きいであろう。さらにまた、家族の経済的困窮はいうにおよばず、その無念、不安、恐怖などの精神的苦痛は、本人のそれにおとらないものがあつたと、思われる。なかんずく、夫婦、親子の長期の別離の苦痛を思うべきである。そして、家族の精神的、肉体的苦痛は、そのまま本人にはねかえつてくるのである。また、家族を含む一族の名誉の侵害による苦痛もこれに加わるのである。本件の慰藉料の算定については、これらのいつさいの事情とともに、第二ないし第九章で論証した捜査官と公訴官の行為の違法性および、過失の重大さを考えなければならない。

なお、原告らの中には、被告人であつた原告らの近親者(妻、親、兄、姉)も含まれているが、これらの原告の被つた精神的損害が法律上の保護を受けうる損害と言えるかどうかについては、特に民法第七一一条との関連で疑問がある。民法第七一一条はかならずしも絶対的な基準ではなく、法律上の保護を受けうるかどうかということは、当該原告の被つた精神的苦痛そのものに着目し、それが法律によつて保護されなければならないかどうかという見地から決定されるべきではあるけれども、その際にも、民法第七一一条の趣旨を軽視すべきではない。そして本件においては、原告らのうち、被告人であつた原告の妻である者に対しては、夫婦でありながら長期間同居できなかつたことを考慮して独自の慰藉料請求権を認めるべきであるが、妻以外の近親者である原告らの被つた精神的苦痛は、被告人であつた原告らの無罪が確定し、被告人であつた原告ら本人の精神的苦痛が慰藉されたことにともなつて、慰藉される範囲内にあるものと考えるべきである。

以上のことを前提にして各原告に与えられるべき慰藉料を決定する。

1  鈴木信

鈴木に対して下された判決は、一審、二審を通じて死刑であつた。右の事実を中心に本件全資料を考慮するとき、鈴木の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金六、〇〇〇、〇〇〇円をもつて相当とすべきである。

2  鈴木ヤイ

鈴木ヤイは鈴木信の妻である。ヤイの精神的苦痛を慰藉する金額としては、金一、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

3  二ノ宮豊

二ノ宮に対して、下された判決は、一審、二審を通じて無期懲役であつた。二ノ宮の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金四、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

4  二ノ宮キク

二ノ宮キクは二ノ宮豊の妻である。キクの精神的苦痛を慰藉する金額としては金六〇〇、〇〇〇円が相当である。

5  阿部市次

阿部に対して下された判決は、一審、死刑、二審、無期懲役であつた。阿部の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては、金五、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

6  赤間勝美

赤間に対して下された判決は、一審、無期懲役、二審、懲役一三年であつた。赤間の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては、金三、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

7  高橋晴雄

高橋に対して下された判決は、一審、無期懲役、二審懲役一五年であつた。高橋の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金三、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

8  高橋キエ

高橋キエは高橋晴雄の妻である。キエの被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金五〇〇、〇〇〇円が相当である。

9  加藤謙三

加藤に対して下された判決は、一審、懲役一二年、二審、懲役一〇年であつた。加藤の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

10  浜崎二雄

浜崎に対して下された判決は、一審、懲役一二年、二審、懲役一〇年であつた。浜崎の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

11  杉浦三郎

杉浦に対して下された判決は、一審、二審を通じて死刑であつた。杉浦の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金六、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

12  杉浦よし

杉浦よしは杉浦三郎の妻である。よしの被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金一、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

13  大内昭三

大内に対して下された判決は、一審、二審を通じて懲役七年であつた。大内の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

14  菊地武

菊地に対して下された判決は、一審、二審を通じて懲役七年であつた。菊地の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

15  二階堂武夫

二階堂に対して下された判決は、一審、二審を通じて懲役七年であつた。二階堂の被つた精神的苦痛を慰藉する金額として金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

16  横谷(二階堂)園子

園子に対して下された判決は、一審、二審を通じて懲役三年六月であつた。園子の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

17  岡田十良松

岡田に対して下された判決は、一審、懲役一二年、二審、無罪であつた。岡田の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金一、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

18  本田昇

本田に対して下された判決は、一審、二審を通じて死刑であつた。本田の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金六、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

19  佐藤一

佐藤(一)に対して下された判決は、一審、二審を通じて死刑であつた。佐藤の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金六、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

20  太田省次

太田に対して下された判決は、一審、無期懲役、二審、懲役一五年であつた。太田の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金三、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

21  太田スミ

太田スミは太田省次の妻である。スミの被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金五〇〇、〇〇〇円が相当である。

22  武田久

武田に対して下された判決は、一審、無期懲役、二審、無罪であつた。武田の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

23  斎藤千

斎藤に対して下された判決は、一審、懲役一五年、二審、無罪であつた。斎藤の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金一、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

24  佐藤代治

佐藤(代)に対して下された判決は、一審、二審を通じて懲役一〇年であつた。佐藤の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

25  小林源三郎

小林に対して下された判決は、一審、二審を通じて懲役七年であつた。小林の被つた精神的苦痛を慰藉する金額としては金二、〇〇〇、〇〇〇円が相当である。

第三節  差し引くべき刑事補償の金額および賠償金額

被告人であつた原告らは、無罪判決の確定したのち、刑事補償金の給付を受けた。被告人であつた各原告が給付を受けた刑事補償金額はつぎに掲げる一覧表中Cに記すとおりである。各原告について得べかりし利益(A)と慰藉料(B)の合計から刑事補償金(C)を差し引いて得られる損害賠償金額は、一覧表中に記すとおりである。

原告氏名

A得べかりし利益の額

B慰藉料の額

C刑事補償額

D差額

鈴木信

万   円

二、三一三、二七〇

万   円

六、〇〇〇、〇〇〇

万   円

一、四二八、〇〇〇

万   円

六、八八五、二七〇

二ノ宮豊

二、二六五、六九六

四、〇〇〇、〇〇〇

一、三九三、六〇〇

四、八七二、〇九六

阿部市次

二、二六五、六九六

五、〇〇〇、〇〇〇

一、四〇六、四〇〇

五、八五九、二九六

本田昇

二、三一三、二七〇

六、〇〇〇、〇〇〇

一、四一二、四〇〇

六、九〇〇、八七〇

赤間勝美

一、五六二、九六〇

三、〇〇〇、〇〇〇

一、〇六六、四〇〇

三、四九六、五六〇

高橋晴雄

二、一四七、三〇八

三、〇〇〇、〇〇〇

一、三五二、四〇〇

三、七九四、九〇八

佐藤一

二、二七五、三八七

六、〇〇〇、〇〇〇

四〇五、六〇〇

七、八六九、七八七

浜崎二雄

七六四、八五〇

二、〇〇〇、〇〇〇

六二二、〇〇〇

二、一四二、八五〇

杉浦三郎

二、三〇九、三三四

六、〇〇〇、〇〇〇

一、四一六、八〇〇

六、八九二、五三四

太田省次

二、二六一、七六〇

三、〇〇〇、〇〇〇

一、一七三、六〇〇

四、〇八八、一六〇

佐藤代治

七六〇、九一四

二、〇〇〇、〇〇〇

六一七、二〇〇

二、一四三、七一四

大内昭三

五一二、六〇〇

二、〇〇〇、〇〇〇

四六〇、四〇〇

二、〇五二、二〇〇

小林源三郎

五一五、九一二

二、〇〇〇、〇〇〇

四六二、八〇〇

二、〇五三、一一二

菊地武

五一四、六〇〇

二、〇〇〇、〇〇〇

四六一、二〇〇

二、〇五三、四〇〇

二階堂武夫

七五五、三六四

二、〇〇〇、〇〇〇

六一一、二〇〇

二、一四四、一六四

横谷園子

二一七、四四四

二、〇〇〇、〇〇〇

二二九、二〇〇

一、九八八、二四四

加藤謙三

七五五、三三八

二、〇〇〇、〇〇〇

六一〇、四〇〇

二、一四四、九三八

武田久

七五四、〇五二

二、〇〇〇、〇〇〇

二九八、八〇〇

二、四五五、二五二

斎藤千こと

斎藤友紀雄

七五四、〇五二

一、〇〇〇、〇〇〇

二二五、九〇〇

一、五二八、一五二

岡田十良松

七四七、一六四

一、〇〇〇、〇〇〇

四五〇、九〇〇

一、二九六、二六四

鈴木ヤイ

一、〇〇〇、〇〇〇

一、〇〇〇、〇〇〇

二ノ宮キク

六〇〇、〇〇〇

六〇〇、〇〇〇

高橋キエ

五〇〇、〇〇〇

五〇〇、〇〇〇

杉浦よし

一、〇〇〇、〇〇〇

一、〇〇〇、〇〇〇

太田スミ

五〇〇、〇〇〇

五〇〇、〇〇〇

なお、遅延損害金は、原告らの請求にかかる日以降、すなわち無罪判決確定の日の翌日(斎藤千こと斎藤友紀雄、岡田十良松および武田久については、無罪判決確定の日より後の日)であることの顕著な昭和三八年九月一三日以降につき、これを是認することにした。

第四節  謝罪文掲載

原告らは謝罪文を新聞に掲載するよう求めているが、本件については、すでに無罪判決が確定し、そのことはあまねく知れわたつているのであるから、謝罪文の掲載の請求までも認める必要はないと考え、これを棄却する。

第五節  結論

よつて原告らの請求を上記の限度で認容し、その余の部分を失当として棄却することとし、訴訟費用について民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

仮執行の宣言は不相当と認めこれを付さない。(白石健三 渡辺均 山下和明)

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